『裁判の正義』

ロナルド・ドゥウォーキン『裁判の正義』*1を読んでいる途中。

今まで読んだ範囲では、米国大統領選挙における得票のカウントに関するブッシュ対ゴア事件裁判をネタに法的プラグマティズムを批判する3章の補論が、非常に面白く、かつかなり説得的だと思える。

たしかに、少なくともドゥウォーキンが素描するところの「法的プラグマティスト」は、ブッシュとゴアのどちらが大統領になった方が利益になるかについての自分の意見を考えざるを得ないし、それがすべてではないにしろ、それを非常に重要な要素として判決を下すべきだろう。どう考えても、ブッシュが大統領に確定するか、ゴアが大統領となる可能性が残るかは、この裁判において重要な帰結だ。


それに対して、もし米国最高裁がそのような「党派的」と受け止められるような顧慮に依拠したならば、裁判への信頼が失われるだろうからそうしない、というのは説得的とは思えない。

まず、この裁判への信頼が問題になるのは、裁判官がどのような真の顧慮を行ったかではなく、どのような真の顧慮を行ったとみなされるかである。

そして、他のプラグマティックなさまざまな顧慮と比較して、どちらが大統領にふさわしいかという顧慮の偽装がとくに困難だとは思えない。偽装が成功しそうなら、裁判への信頼に支障はない。

もし、逆に、米国最高裁が実際に「党派的」な顧慮をしたのであれ、しなかったのであれ、どうせそのような顧慮をしたと国民にみなされるのであれば、やはり裁判への信頼について違いはないのだから、プラグマティストなら実際に顧慮すべきである。

*1:

裁判の正義

裁判の正義