『科学と価値』

ラリー・ラウダン『科学と価値―相対主義実在論を論駁する』 *1を読んだ。科学理論といわゆる科学的方法、そして科学の目的(価値)との相関関係を論じている。訳者解説がノリノリで面白いので、一見の価値あり。

ラウダンは、科学の理論と方法が科学の目的を制約し、科学者共同体がその理論と方法を保持したまま科学の目的についての見解を変えうること*2を梃子として、科学の目的は「真なる(あるいは近似的に真なる)理論─実在がどうなっているか─を明らかにすること」ではないと論じている。

他方、ラウダン自身が科学の目的をどう特定しているかは論じられない。ラウダンは科学の目的は移り変わるものだと考えているので、そもそも特定の一貫した目的などないのだと考えている。


もっとも、科学の理論の「存在論」に言及するときの口ぶりから、ラウダン自身も次のことを認めるのではないかと思う:

  • 科学理論は「何が存在しているか」という言明を含んでいる

ということは、多くの科学者は「何が存在しているか」という言明を正当化する作業に勤しんでいるわけだが、それは哲学的なレベルでは(?)正当化に失敗している、ということだろうか? そうであれば、ラウダンの議論は科学を内側から見た視点外側から見た視点の厳格な区別を出発点としている、ということになるだろう(たぶんラウダンは否定しない)。


一つ、僕の疑問。

たしかに、量子などの極めてミクロな科学的対象については、もはや科学者は「ほんとうに存在するかどうか」を問題としていないようにも思える。

しかし、宇宙の大規模構造とか、地質学的な過去とかについてまで、そう考えることができるだろうか?

銀河がこれこれこのように「存在する」とか、白亜紀にはこれこれこのような気候変動が「存在した」とか、それは所詮、科学の方法論に基づく、科学の理論に内在的な意味でしかそうではないのだ、と考えるべきなのか? 僕達は、科学に従事しているその只中以外では、地球5分前創造説にまで大幅に譲歩しなくてはならないのか?

それはあまりにも無茶だ、と僕には思える。

*1:

科学と価値―相対主義と実在論を論駁する (双書現代哲学)

科学と価値―相対主義と実在論を論駁する (双書現代哲学)

*2:ここまで単純化されたことがそうそうあるかといえば疑問だが、大雑把な要約なので。