道徳の可謬主義

実在論

英米哲学系統のメタ倫理学においては「道徳的実在論」にはそれなりの支持者がいる。

ただ、ここで「実在論」というとき、英米哲学の他の分野と同様、二通りの意味を区別するべきだろう:

  1. 道徳的命題に真偽がある(あるいはもっと弱く─道徳に関して合理的議論が成り立つ)
  2. 道徳的対象あるいは道徳的性質といったものが、虚構的にではなく、現実に存在する

濃い道徳的性質

誠実・寛容・勇敢といった人・社会・状況・行動に付与される肯定的な道徳的性質、不誠実・冷酷・残酷という否定的な道徳的性質は、現実に存在する人や社会や状況、あるいは現実に行われた行動が実際に持っている、実在的な性質であると、僕は考えている。

だってそうでしょ? なんというか… 正直いって、いちどこの認識に立つとこれが説明しなければならないようなことだというのに戸惑いを感じる。だって、現にそうなんだもの! 物事を直視すればそうなっている! 百聞は一見に如かず!

しかし、まぁ、なんとか説明してみようと思う。

例えば、五歳の子どもが『泣いた赤鬼』*1を読んで、にこやかな顔で、青鬼を「ザンニンだ」と評したとする。僕たちはそれを見て、どう考えるだろうか? 「ああ、なるほどこの子どもは変わった感性をしているな」と真っ先に考えるだろうか? そうではなく「この子はこの物語のどこかを誤解しているのではないか」とか、「この子は『残忍』だという言葉を誤解しているのではないか」というように考えるのではないだろうか?*2

「残忍」という言葉を誤解して、そのためにそう評するのが不適切な人や状況に適用するということが可能であり、したがってまたその誤解を解くということが可能であるのは、その「残忍」という言葉が人や状況のある性質を表しているからだ。

第一に、以上のことは「残忍」という言葉を「寛容」という言葉に、この五歳の子どもを日本語を覚え始めた外国人に置き換え、『泣いた赤鬼』を現実にあった重大犯罪に置き換えても成り立つ。


また別の話になるが、第二に、非人道的で奴隷的な使役を受けている人を開放する、例えばゲリラにつらされて兵士や「妻」にされた子どもを助けだし、それなりの生活を提供するといった、現実への介入によって、非人道的な状況をより人道的なものに変えることができる。

この二点を考えれば、誠実・寛容・勇敢・不誠実・残酷・卑怯といった道徳的性質が、現実に存在する人や社会や状況、あるいは現実に行われた行動が実際に持っている実在的な性質であることを否定するのは困難だと思われる。


道徳的性質なるものが現実に存在するという考え方に抵抗するものの一つは、それが自然科学的な性質ではないという理解だろう。たしかに、道徳的性質は自然科学的な性質ではない。誠実性センサーを片手に実験室で計測を繰り返している自然科学者などというは、想像できない。

しかし、人・社会・状況・行動が非自然科学的性質を持っている(持ちうる)ということは、自然科学的な世界観と非整合的なわけではない。さまざまな思想において主張される非自然科学的性質は、それを認めることが自然科学的な世界観と整合しないことはありえる。しかし、すべての非自然科学的性質がそうだというわけではない。

例えば、僕は日本人だが、日本人であるという性質(日本人性)は自然科学的な性質ではない。それでも、僕が日本人性を持っているということは、べつに自然科学的な世界観と矛盾しはしない。僕の財布の中の紙が千円の価値を持っているということも、自然科学的な世界観と矛盾しない。


以上の議論は、道徳的性質がはじめにあげた2の意味で実在的だという議論だが、その自然な帰結として、そのような道徳的性質に言及する命題は1の意味で実在的だということを導く。

したがって、誠実・寛容・勇敢・不誠実・残酷・卑怯といった道徳的性質については、1の意味においても、2の意味においても僕は実在論者だ。

薄い道徳的性質

誠実・寛容・勇敢・不誠実・残酷・卑怯といったものを濃い道徳的性質と呼び、善や悪を薄い道徳的性質と呼ぼう。


さて、僕は、すでに述べたように濃い道徳的性質は1と2の両方の意味で実在的だと考えているが、善や悪という薄い道徳的性質についてはその実在性を認めることには躊躇を感じる。その理由を明確に述べることは難しいが、僕が疑問に思っていることは、合理的に道徳的判断を下そうとするとき、「善」とか「悪」とかいう概念が役に立つのか? というものだ。

僕は、さまざまな合理的な道徳的議論、それに基づいた合理的な道徳的判断が可能だと思っている。例えば、ある人の境遇が残酷なものだということを認めない対論者に対して、その境遇に陥った原因、その境遇の詳細、その境遇の帰結といったものを提示して意見を変えさせることは可能だろう*3。あるいはまた、その境遇が残酷だということを認めさせたうえで、それをこれこれこのように改善しなくてはならない、と説得することも可能だろう。

しかし、第一に、「私たちは悪を減らし、善を増大させなければならいことには同意する。これは本当にそう確信している。そして、その人の境遇が残酷なものであることは確かにそのとおりだ。しかし、残酷なことは悪であり、それを解消することは善なのだろうか? それが分からない。これが分からないかぎり、その残酷な境遇を解消することが道徳的に正しいということには賛同できない」という立場の人を、合理的に説得する方法というのが僕にはうまく想像できない。


第二に、もし、完全な掛け値なしの無道徳主義者を合理的に説得する方法があるのであれば、それは「善」とか「悪」とかいう概念の(少なくとも1の意味での)実在性を説得することになるのかもしれない。しかし、そのような方法があるようにも思えない。

僕は、表面上の無道徳主義者を合理的に説得する方法はあるだろうと思っている。それにはっきりと成功したといえることはないが、僕自身、自分が表面上の無道徳主義者であって、それが自己欺瞞であるということに気づいたためにそれをやめたからであり、またほとんどの無道徳主義者は同じ矛盾に陥っているように思えるからだ。

かなり多くの人が、「道徳的に正しいとか間違っているとかいうのは主観的なことだ。たんに自分の感情をそう表明しているにすぎない」と主張する。しかし、そういう人たちのほとんどは、自分の感情・嗜好にしたがうことを必死に正当化しようとする。曰く、「皆そうだ」「自由だ」。それは質が良いものであれ、悪いものであれ、道徳的な正当化なのであり、そのような正当化を試みるということは道徳の(1の意味での)実在性を信じているに等しい。この矛盾に気づかせることが難しいのは確かだが*4、合理的に説得することは可能だろうと思われる。

しかし、繰り返しになるが、正真正銘の無道徳主義者、道徳的正当化を一切試みず、それをまったく理解不能だと感じるような人が仮に存在するとしたら*5、説得する方法があるようには思えない。


つまり(順番が前後するが)、(1)「善」とか「悪」とかいう薄い道徳的性質を持ち出して無道徳主義者を道徳実在論者にすることはできないだろう。(2)「善」とか「悪」とかいう薄い道徳的性質と、濃い道徳的性質との関係を説得することはできないだろう。

僕にいわせれば、「善」とか「悪」とかいう薄い道徳的性質は、あまり役に立たないものであるように思えるのだ。もっといえば、道徳的議論において「善」とか「悪」とかいう薄い道徳的性質に係り合うことは不都合なことであるように思える。

それは大雑把すぎるのだ。例えば、非常に公正だが煩雑過ぎて社会全体の福利を極めて低下させる社会制度というものはありえる。社会全体の福利は非常に上昇させるが、残酷過ぎる制度というものもありえる(サバイバル・ロッタリー)。もし、文句なく「最善」の制度、つまり相対的な善ではなく「絶対的な善」といえる選択がありうるならば、「善」とか「悪」という概念を使うのもよいだろう。

しかし、ある点においては道徳的に好ましく、別の点においては好ましくない様々な制度や選択の中から、相対的にマシなものを選ばなくてはならないのであれば(そして実際ほとんどの場合にそうだと思う)、その様々な点に基づいて考察するべきであって、「善」とか「悪」という概念をやたらに持ち出すことはその慎重で分析的な考察を阻害するのではないかと思われる。


ながながと書いてきたが、「善」とか「悪」という薄い道徳的性質が実在的なものかどうかという問題については、答えを出せていない。ただ、それが実在的なものであっても、合理的な道徳的議論においてあまり役に立たないのではないか、そうであればそれが実在的かどうかというのはどうでも良いことなのではないか、と思える。

可謬主義

僕は、誠実・寛容・勇敢・不誠実・冷酷・卑怯といったものを濃い道徳的性質については、はっきりとした実在論者である。

そして、道徳の実在論者として、少なくとも全面的な道徳的相対主義を拒絶する。道徳的に正しい答えというのはしばしば存在し、そのような問題について意見の相違がある場合は、少なくともどちらかは間違っている。

しかし、これは、道徳的な「絶対主義」という言葉によって連想されるような(そう呼びたければ仕方がないが)、独善的・独断的な立場を意味するようなものではない。道徳的な問題に正しい答えと間違った答えがあると考えるからこそ、自分が間違っている可能性、自分の考えを訂正しなくてはならない可能性というのを真剣に受け止められるのだ。逆に、道徳的な問題について正しい答えなどないのだという相対主義こそ、自分がそう判断したのだからもはやそれを訂正することはない、という独善的・独断的な立場への歯止めはなかろうと思う(実際、道徳的相対主義を真剣に受け止めれば、「訂正」なんか不可能だろう)。

この道徳的実在論者であり、道徳的な「絶対主義」者であるからこそ、自分が間違っている可能性を真剣に受け止められるのだということを、僕は強調したい。これはもう、まったくそうでしょ?

そういうわけで、僕は自分の立場を「道徳の可謬主義」と呼ぶ。

*1:僕はこれは名作だと思う。

*2:まぁ、どう考えるのがより多数派なのかはともかく、後者、とくに「言葉を誤解しているのではないか」という判断は十分に理解可能なものだろう。

*3:「常に成功する」といっているわけではない。

*4:経験上そう分かっているが、それがなぜなのかは良く分からない。

*5:ほとんど存在しないと思うが、いるかもしれない。