超越論的論証・意味の全体論

一般論として「超越論的論証」というやつは疑わしい。

しかし、大雑把に言って「僕の信念はほとんど正しい」という、このいっけん超傲慢、超独断的にみえる超越論的論証は正しい、少なくとも真剣に考慮するに値するように思われる。それはこういう議論である:

  1. 信念は有意味でなくてはならない
  2. 信念が有意味であるためには、それに関連するかなり多くの信念が有意味でなくてはならない
  3. 信念が有意味であるためには、それに関連する信念の大部分が真でなくてはならない
  4. したがって、一つの信念を持つためにはかなり多くの信念が真でなくてはならず、それらの信念が真であるためにはさらに多くの信念が真でなくてはならず… という具合に、ほとんどすべての信念は真でなくてはならない

1は問題なさそうだ。1〜3から4への推論には少し飛躍があるが、ほとんど「言葉の使い方」レベルの修正ですみそうに思える。

2は意味の全体論だが、現在の多くの英米哲学者が認めることであり、僕も正しいと思われる。例えば、地球というのはこういうものである、太陽とはこういうものであるという諸々の信念を持っていなくては、「地球は太陽のまわりを回っている」という信念を僕が持つことは不可能だろうし、逆にいえば「地球は太陽のまわりを回っている」という信念があるためには、地球というのはこういうものである、太陽とはこういうものであるという諸々の信念を持つ必要がある。そして、ここでいう「信念を持つ」というのは、「有意味な信念を持つ」ということだ。意味不明な信念を持っても(これが語義矛盾ではないとして)、この相互保持関係にはなんの寄与もしないだろう。

問題は3だ。たぶん、真理の対応説、その前提として意味の指示説(か、それに近いもの)を採用すれば、これも正しいように思える。その立場に立てば、地球というのはこういうものである、太陽とはこういうものであるという諸々の信念を有意味に持つためには、最低限、その僕が考えている地球や太陽によく似たものが実際に存在しなくてはならない。僕がひどい錯覚に陥っていて、じつは僕のまわりに大地がないとか、空に光り輝いている大きな光球なり円盤なりがない、僕はじつは真っ暗な無重力空間を落下しながら妄想を抱いているだけ、あるいはさらに言えばそもそも三次元空間など存在しないとすれば、そもそも僕は「地球」とは「太陽」とかについて何かを考えている、何らかの信念を持っていることになるだろうか?

しかし、僕はいま、真理の対応説に対して非常に懐疑的になっている。やはり、数学に真理の対応説を適用するのは無茶だろう。そして、数学的真理をうまく扱えない真理理論にいったいどんな価値があるといえるのか、非常に疑問に思う。

とはいえ、真理の対応説を取らずとも、やはり3も肯定できそうにも思う。日本や、首相や、体毛ということについて何一つ正しいことを知らないのに、それでもなお「現在の日本の首相はハゲである」という命題を理解できるというのは、とても奇妙なことではなかろうか。この命題を理解できるためには、日本や、首相や、体毛ということについてある程度、というか十分に知っている必要があるように思える。

さて、1〜3と、それらから4への推論がすべて正しいとしよう。そうすると出てくる結論4は、より詳細にいえば「僕が一つでも信念を実際に持っているならば、ほとんどすべての信念は正しくなくてはならない」という条件文である。その対偶をとれば、「もし僕の信念の大部分が正しくはないのであれば、僕は実際には一つも信念を持っていない」ということになる。ここから、「ほとんどすべての信念は正しくなくてはならない」と帰結するためには、最後の一歩が必要だ:

  • 僕は実際に一つは信念を持っている

うーん… さすがにこれは否定しがたいだろう。


最後に、ちょっと蛇足。あまり突っ込んで考えていないが、この超越論的論証とラッセルの記述理論の間には、対立的な関係があるように思える。ラッセルの記述理論を使うと、あまりにも多くのいっけん無意味にみえる信念があまりにも容易に有意味になってしまい、しかもそのようにして有意味になった信念のほとんどは偽である。