逆転スペクトル人(2)

逆転スペクトル人の思考実験について気づいたことがあるのでメモ。

まず、逆転スペクトル人の思考実験のあるバリエーションを考えてみることにする:

この地球を離れたはるか彼方、宇宙のどこかに、この天の川銀河とそっくり同じ銀河があり、この太陽系とそっくり同じ恒星系があり、この地球そっくり同じ惑星があって、その細部まで同じだとする。

その惑星、つまり双子地球には地球の日本列島とそっくり同じ列島があり、東京とそっくりおなじ都市があり、そこに住む人々、その行動、さらにその人々を構成している分子、原子にいたるまで地球とまったく同じである。

さて、その双子地球に住む僕のカンターパートナーと僕は、その構成している分子、原子、周囲の環境まですべて同じである。必要であれば、それぞれにとって観測できる宇宙の大規模構造がどこまでも同じであるとしてよい。

このとき、その僕のカンターパートナーが、僕に対して逆転スペクトル人であるということが可能だろうか?

これは、逆転スペクトル人の思考実験を、パトナムの双子地球の思考実験のアイデアによって限定したものだ。しかし、双子地球というアイデアが不自然だと思うのであれば、可能世界を考えようと、あるいはこの地球上で密室で育てられた双子*1を考えても良い。

この思考実験の要点は:

  • まったく同じ物理的組成を持ち、まったく同じ物理的環境にある二人の人が、その一方に対して他方が逆転スペクトル人であるということはありえるか?

というところにある*2

やはり、まったく同じ物理的組成を持ち、まったく同じ物理的環境にある二人の人が、その精神活動において相違があるなんてことはありそうにない。心身二元論は、どうしたって受け入れがたい*3

そうすると、逆転スペクトル人の思考実験は行動主義への反論としてはなお有効であるとしても、なんらのアポリアも生み出さないように思える。まったく同じ物理的組成を持ち、まったく同じ物理的環境にある人の見ている「主観的な」色は同じなのだから、もしある二人の人が見ている色が違うならば、それは実際その周囲の物理的環境が違っているか、その二人の物理的組成が違うかである。前者であれば見ている色が違うのはあまりに当たり前のことだろう、見ている対象が違うんだから。後者は自然科学的細部はまだまだ分からないものの、アポリアというほどミステリアスなことではない。

いま、僕が書いた議論はいくぶん循環しているかもしれない。心身二元論の否定を前提として、心身二元論の否定を導いたように見える。たぶん、それはそうなのだと思う。しかし、逆に、逆転スペクトル人の思考実験によって心身二元論に説得力が増しそうに思えるのは、もともと心身二元論に有利なように逆転スペクトル人の思考実験を見積もったからだ、ということも示せたのかもしれない(さっき思いついたアイデアだから、もっと良く考えてみる必要があるけども)。

そして、これは強調しておきたいことだが、逆転スペクトル人の思考実験と独立した、心身二元論に反対する理由がきちんとあるのだ(物理領域の因果的閉包性)。したがって、逆転スペクトル人の思考実験が、心身二元論の否定から否定へ、心身二元論の肯定から肯定へと導くような循環的な議論なのならば、やはり心身二元論は疑わしいということになるだけだ。

*1:この双子は不自然なまでに「同じ」でなくてはならないが。

*2:このバリエーションには、このエントリで取り上げないある利点がある。それは「逆転」スペクトル人に対する「普通」の人を全くて定義しないですむことだ。たんに二人の人間が相互に逆転していればよく、どちらが「普通」であるかというのは問題にならない

*3:正直に告白すると、僕はこの思考実験を思いついたとき、「そんなことありそうにない」と言いたい気持ちと、「たしかにありえるだろう」と言いたい気持ちの葛藤を感じた(いまもある程度感じている)。これがありえるというためには、心身二元論的に考える以外の道はなさそうに思える。そして、心身二元論、つまり霊魂が僕の体をテレキネシスで動かしているということなどありえない、と僕はかなり強く確信している。それにもかかわらず、この思考実験について「そんなことありそうにない」と言い切るのには心理的抵抗を感じるのだ。しかし、まぁ、この僕の喉に噛みついた蛇を無理やり噛み切ることにしよう。