逆転スペクトル人

ヒラリー・パトナム『心・身体・世界』で、逆転スペクトル*1が現実的には不可能だということにこだわっているのが理解できなかった(例えば、247項)。

この点について、ふと、少し理解できたように思う。たぶん、これはクオリア説というか、ヒュームやラッセルのセンスデータ説が「科学的な議論」という印象とともに提唱されたことへの反論なんだろう。

例えば、「『赤』という性質は客観的には存在しない。存在するのは700nm周辺の波長の電磁波であり、電磁波は赤くない」*2というのは、なるほどある意味で科学的な背景が必要な言明である。自然科学的な知識がなければ、電磁波がどうとか、その波長がどうとかいうことはできない。

このような印象への反論として、パトナムは逆転スペクトル人の科学的な不可能性(少なくとも困難性)にこだわったのではないかと思う。逆転スペクトル人の議論には、そのような逆転スペクトル人を可能ならしめる自然科学的な細部、つまり「神経がこう配線されていれば、あるいはこういうホルモン分泌がなされていれば、逆転スペクトル人になるはずだ」という細部が欠けている。


そして、もっと歩を進めれば、逆転スペクトル人を可能ならしめる自然科学的な細部は存在しないだけではく、少なくともクオリア説・センスデータ説のハードコアな解釈の下では、そのような細部は決して存在しえないかもしれない。その根拠を単純化すれば次のようになる: ハードコアな、つまり心身二元論的なクオリア説・センスデータ説は、物理領域の因果的閉包性の原理に反している。物理領域の因果的閉包性の原理に反した「自然科学的な説明」など期待できない。

「存在するのは700nm周辺の波長の電磁波であり、電磁波は赤くない」とする。では、網膜がその波長の電磁波を受けたときに発する信号、シナプスの電位もべつに赤くはなかろう。その信号が脳のどこかに到達して起きるさまざまな現象、やはりシナプスの電位、放出される化学物質といったものもべつに赤くはなかろう。いや、もしかしたら赤いこともあるかもしれないが、少なくとも赤色(とされる)ものをみたとき、青色(とされる)ものをみたとき、黒(とされる)ものをみたとき、それぞれに応じて中枢神経のどこかがその色に染まるなんてことはない。

したがって、「存在するのは700nm周辺の波長の電磁波であり、電磁波は赤くない」という議論を敷衍するならば、赤い何かは、頭蓋骨の外のどこにも存在しないだけではなく、頭蓋骨の中のどこにも存在しない。ここに至って、クオリアやセンスデータは非物理的に存在するほかなくなる。そして、随伴現象説をとらない限り、物理領域の因果的閉包性の原理に反する。


こういう反論がありえる: 「いや、中枢神経内の電位やら化学物質やら、あるいはそのマクロなパターンには、クオリアないしはセンスデータがスーパーヴィーンしていて、それは赤いのだ」と。

では、どうして、電磁波がそのマクロな性質として赤くてはいけない?

電磁波が赤い、あるいは頭蓋骨の外のある光学的性質*3をもつものが赤いということは拒絶して、中枢神経内の電位やら化学物質が赤いということを認めるのに─実際には赤くない!─どんな「科学的」根拠があるというのだろう*4

*1:哲学の思考実験に出てくる、色相(や明度?)が反転した視覚をもつ人。この人にとって緑色のものは赤く見え、赤いものは緑色に見える。しかし、彼にとって赤く見えるものを彼は「緑」と呼び、彼にとって緑色に見えるものを彼は「赤」と呼び、他の色についても同様─ディレッタントな言い方をすれば系統的に取り違えている?─。そのため、彼が逆転スペクトル人であることを他の人が知ることは決してない、とされる。このような逆転スペクトル人が存在「しえる」にも関わらず、そのような人の精神内容と普通の人の精神内容の違いを説明できないことが、心の哲学における行動主義の欠点だとされる。

*2:僕が作った例だけど、いかにもありそうな言明だと思う。

*3:反射スペクトル?

*4:ちなみに、僕は、「赤」というのは、第一義的には電磁波の性質ではなくて、反射か自らの発光によってある周波数周辺の電磁波を発する(少なくともその可能性がある)物体の性質のことだと考えたほうが良いだろう、と思う。しかし、これは単純に言葉の使用上の問題であって、なんら存在論的・認識論的な問題ではない。