なぜ、フィクションに基いて語れるのか?

なぜ、僕たちがフィクションに基いて語れるのかが、さっぱり分からない。可能世界論を真に受ければ説明がつくだろうが、しかし、そもそも、可能世界に基いて語れるということ自体が、フィクションに基いて語れるということを前提にしているようにも思える。

例えば、「昭和百年の東京」というものは存在しない。「昭和百年の東京」について何を語ろうとも、それがフィクションであるということを前提しなければ、それは無意味であるか、偽であるだろう。しかし、フィクションの中でなら、それを有意味に語ることができているように思える。

ラッセルの記述理論を使うとか、フィクションについて語ることは「〜においては、『…』ということが述べられる」というような引用の省略形であるとか、議論することはできるが、なにか迂遠であって、いかにも技巧的な処理という印象を受ける。

気になっている点が二つある:

  • 「なぜ、フィクションについて語れるのか?」という疑問自体が、おかしいのかもしれない。これを疑問に思うのは、指示の因果説や真理条件意味論などの装置を前提しているから疑問に思うのであって、それらの装置自体が間違っている可能性はある。
  • フィクションについて語ることと、事実の非常に突飛な解釈について語ること、ほとんど間違っているような理論に依拠して事実について語ることの間に、明瞭な境界線はないかもしれない。そして、かつ、ほとんど間違っているような理論に依拠して事実について語ることと、だいたい正しい理論に依拠して事実について語ることがやはり連続的であるならば、フィクションに基いた語りとだいたい正しい理論に依拠した事実についての語りも連続的であることになる*1

*1:ラッセルの記述理論などは、この連続性を説明できないのではないだろうか。