クオリア

まず、クオリアによる説明は、「カルテジアン劇場」的な構図、つまり僕の頭の中ないしは心の中にクオリアが存在して、そしてそのクオリア観察しているという構図で理解しては、何の魅力もない。その頭の中のクオリア観察しているのは、いったい誰なのか? その観察している僕の頭の中の小人は、さらにその観察によってクオリアを得ているのか? そして、その小人の中にもさらに小人が? クオリアによる説明を(ひとまず)受け入れるのであっても、このように理解しては、無限後退を引き起こして何も説明していない。クオリアは、頭の中ないしは心の中に存在し、僕はそれを端的に持っている、持つことによってすなわち認識しているというところで説明をストップさせなくてはならない。

ところで、クオリアは、それが存在するとして、その内容が異なるが、内容によって区別できないということがありうる。

例えば、C1からC100まで、白から赤まで微妙に色が変化しているカードが百枚あるとする。C1は真っ白、C50はピンク色に見え、C100は赤色に見える。しかし、僕は、C1とC2の色を区別できないし、C2とC3の色を区別できない、同様に、C3とC4の、C4とC5の… とにかく隣り合ったカードの色を区別することができない。しかし、C1とC50とC100の色はそれぞれ区別できる。このとき、それらの色のクオリアは、グラデーションを作っている。

このクオリアがその内容が異なるが、内容によって区別できないということを、「カルデシアン劇場」的な構図を利用せずにどうやって理解することができるのか分からない。この場合、そのクオリアは僕が認識できない何かを、たぶんそのクオリアの構成要素だとか、隠れた変数だとかを持っていることになるだろう。しかし、クオリアは僕の感覚の内容そのものであって、それを余すところなく認識しているはずではないだろうか? もし、僕がクオリアの内容を余すところなく認識しているのではないとすると、僕の頭の中ないしは心の中にクオリアがあって、それを、僕は、あるいは僕の頭の中の小人がさらに何らかの感じ方をしていることになる。そして、「カルテジアン劇場」的な構図をともなうクオリアによる説明は、無限後退を引き起こして、何も説明していない。

まぁ、「カルテジアン劇場」的な構図でなければ理解できないというのは、こじ付けかもしれない。しかし、いずれにせよ、その内容を僕が余すところなく認識することができない僕のクオリア、という概念は、かなり役立たずであるようには思える。