クオリアと感じ方

クオリアを持ち出さなくては説明できないような問題というのは存在しないように思う。クオリアが持ち出される問題は、クオリアが担っている説明力を選言的説明と、対象の'''感じ方'''に移し変えることによって、同様に説明することが可能だろう。

  • 私が黒鉛を見たとき感じる色を、小麦粉を見たときに感じ、私が小麦粉を見たときに感じる色を、黒鉛を見たときに感じる人がいるとする。前者の場合に共通しているのは黒のクオリアであり、後者の場合に共通しているのは白のクオリアである。→前者の場合に共通しているのは感じ方であり、後者の場合も同様である。
  • 私が網膜、視神経、脳を含む人体の構造のすべてと、光学、物理学のすべての知識を持っているとする。それでも、私は実際に赤いもの、ないしは赤いを光を見たことがなければ、その色がどのようなものか知ることができない。そのとき、私が知らないのは、赤のクオリアである。→そのとき、私が知らないのは、赤の感じ方である。
  • あるとき、私はパリでエッフェル塔をなまで見た。その晩、エッフェル塔を夢のなかで見た。この両者の経験に共通しているのは、エッフェル塔の色や形というクオリアである。→「エッフェル塔を見たか、見ているように思っている」という事態が存在する。両者の経験に共通するのはその事態である。

たぶん、これはそれほど些細な言い換えではない。クオリアによる説明は、述語論理に引き直せば項としてとらえられるような、クオリアという存在者によって説明しようとする。対して、感じ方による説明は、それを述語のようにとらえている。