疑似科学批判・批判のまとめっぽい何か

まず、僕が一番初めに書いたエントリは、基本的に次の三点で構成されている:

  1. ウェブで見かける疑似科学批判がやっていることは「科学」というレッテルの帰属争いだとして、それはセクショナリズムだと評した。
  2. 論理実証主義者に比べて、その志は低いと評した。
  3. 「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたい」という願望を述べた。

1.についてだけど、少なくとも前段、疑似科学批判がやっていることは「科学」というレッテルの帰属争いであるというのは、多くの疑似科学批判者が意識的に選んだことではないの? これが問題になるようには思えない。後段は、私の揶揄的な評価だけど、少なくとも後に続く論理実証主義をふまえた上で、これをセクショナリズムだと評するのが、そんなに奇妙なものとは思えない。

2.についてだけど、そりゃそうでしょう、としか言いようがないことなんじゃないかな。科学、哲学、その他の文化領域のほとんどについて思想的に改造しようとした論理実証主義と同じような壮大な意図を、多くの疑似科学批判が持っているのだとしたら、そちらのほうがびっくりする。もちろん、そんなものと比較するのは無意味であるという批判はありえるし、それはそうかもしれないと思うけど。

3.について。これは、願望。以上。


ブクマコメントを見ていて、とくに思ったのが、僕が科学について何か意見を表明しているかのような、そしてそれに対してコメントしているかのようなコメントが少なくなかったこと。

この一連のエントリで、少なくとも初めと二つ目のエントリで、僕は科学そのものについては、ほとんど語っていない。たんに、「ウェブで見かける疑似科学批判」について語っている。最大限に何かを読み取るとしたら、「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒する」というのがありえる立場だと僕は考えている、ということだろう。

これがありうると考えることが、そんなに奇妙なことだろうか。この立場を採用したからといって、科学が宗教や道徳に取って代わるということを意味しない。たんに、宗教や道徳の占めていた位置に「ほんとうの答え」などない、という立場をとることになる。これが、そんなに奇妙な考えか。むしろ、宗教や道徳に「ほんとうの答え」があるという立場のほうが少数派ではないのか?

もちろん、科学自身がそういう考えを導くといっているわけではない。なんか、スーパー科学みたいなものを僕が考えていて、それがその強烈なパワーで宗教や道徳を駆逐してしまうだろう、とかいうことを考えているわけではない。そうではなくて、ただ、哲学的にそういう立場はありえるだろうというだけ。


ブクマコメントから思ったこと、二つ目。僕が科学と似非科学を相対的に考えている、と誤解を受けているのかもしれないということ。

全然、そう考えていない。「ウェブで見かける疑似科学批判」がセクショナリズムになってしまっているのが志が低いと言っているのだから、それではいけない、科学と似非科学にはセクショナリズム以上の区別があるはずだ、少なくともそう考えない志は低い、と僕が考えていることは明らかだろう。


ブクマコメントから思ったこと、三つ目。総じて、僕は、擬似科学批判が不十分だと書いている。ブクマコメントの何人かはちゃんとそれが分かった上で、その考えは一面的だといったようなコメントを返してくれているから、まったく意味が通らなかった文章ということもないのだろう。しかし、かなり分かりにくかったんだろうことは認めざるをえない。


四つ目。確かに、僕は疑似科学批判を揶揄しているが、否定しているわけでは全然ない。「批判」という語は、必ずしも「非難」「否定」の意味ではなく、「検討」「評価」の意味でも使われる*1擬似科学批判が不十分だといっているが、疑似科学批判が悪いことだとかとは、一言も書いていない。


五つ目。もしかして、ほとんどの人が、論理実証主義を知らない? それはたしかに、僕が何を言いたいか、分かるわけない。セクショナリズムという揶揄も、志が低いという評価も、論理実証主義という志が高すぎた思想との比較をふまえた上でのことだもの。


最後に。なんども聞かれているような気がするが、結局、疑似科学批判がどうあるべきだと僕は言っているのか? 

べつに、何も「こうあるべき」とは言ってはないし、考えてもいない。揶揄して、論理実証主義と比較し、難しい願望を述べただけ。公開されているとはいえ、誰あてに書いたわけでない日記なのだから、それで何か問題があるとは思わない。

とはいえ、疑似科学批判にはこうあって欲しい、とうのはある。それは、繰り返しているけど、できれば、なぜ実証、検証、反証というものが大切かということを説明し、少なくともそれらにコミットメントしていることを明示的に表明して、「疑似科学」批判だけではなく、「非科学」批判として通用するような枠組みを持って欲しい。

この「なぜ実証、検証、反証というものが大切か」というのも、必ずしも、哲学的に高尚に説明しなければならないということでもない(そうできるのならば、そのほうがなお良いが)。「科学的事実」とか「科学的真理」とか「科学的方法」とかいった「科学的」という修飾詞をつけた用語ではなく、端的に「事実」、「真理」、それらの「探求方法」という用語で議論するといった程度のことでも、実証(検証なり、反証なり)が端的に事実や真理に結びつき、たんなるレッテル帰属争いを超え、「非科学」批判としての土台を作る一歩を踏み出すことができる。

極端な話だが、「宗教的事実」に基いて子どもをレイプするような宗教者だって、疑似科学批判と同じ用語、同じ口調で「『科学的方法』によって実証されなければ『科学的事実』ではない」と矛盾なくいうことができる(「しかし、『宗教的事実』は違う」と言いながら)。仮想的にいうならば、同じことを疑似科学批判が言うとき、こいつと同じ用語、同じ口調でしゃべっていることになる。

「実証されなければ確かな事実ではない」という代わりに「『科学的方法』によって実証されなければ『科学的事実』ではない」というとき、そういう連中が子どもを虐待する口実を作り出す空気、さも「科学的事実」とは別の「宗教的事実」なるものがあって、それは「科学的方法」ではない「宗教的方法」によって探求できるのだという主張を許す空気を温存させることになる。僕は、その空気が大嫌いだ。

それは、べつに疑似科学批判の責任ではないし、そういう因果関係を僕が立証できるわけでもない。そもそも、こういった社会問題は、科学者の仕事というわけではない。そして、疑似科学を批判することによって得られるメリットは、それよりも大きく、また確実で、直接的かもしれない。しかし、「『科学的方法』によって…」という代わりに「実証されなければ…」というだけで、そのような空気の温存をいくらかは防げるというのに、「科学的」という修飾詞を好む明確なメリット、とくに科学者が率先してそうするメリットというものが僕にはあまり思いつかない。