真理

真理の対応説は、私のある信念が真であるとは、その信念が事実と何らかの「対応」を持っているということであるとする説だが、その「対応」が存在するべきところが私の信念全体の外側であって、そのような「対応」を私たちは決して知り得ない、という点に弱点を持っている*1

真理の整合説は、私のある信念が真であるとは、その信念が他の信念と整合しているということであるとする説であって、全体として整合的な信念の集合が複数ありえるだろうことを考えると、容易に相対主義にいたる。しかし、相対主義は、複数の信念の集合を俯瞰するような特別な視点を設定することだから、そのような俯瞰的視点は、相対主義にとって自己論駁的である。

相対主義にいたらない真理の整合説がありえるのかはよく分からない。しかし、相対主義にいたらない真理の整合説があったとしても、そもそも、整合説が信念の全体を問題にした時点で、その信念の全体を俯瞰するような特別な視点をすでに導入してしまっているのではないだろうか。これは自己論駁的とまではいえないかもしれないが、なにか釈然としないものを感じる。少なくとも、チャーニアクは、そのような俯瞰的視点を現実にとることは、私たちの脳の構造では不可能だと論じている。

*1:これは前期ヴィトゲンシュタインがすでに指摘している。また、他方で、ヴィトゲンシュタインはそのような対応関係を「示す」ことはできるといったことを主張しており、それが疑わしいものであるということもラッセルが指摘していたように思う。