ヴィトゲンシュタインの私的言語批判

ヴィトゲンシュタインの私的言語批判について、うろ覚えで書く。

ヴィトゲンシュタインが、痛みの印をつけたカレンダーの喩えで問いかけたことは、今日的な表現で言えば、「クオリアに公共的な命名をすることが可能だろうか?」ということではないだろうか。これを「私的言語は可能か?」とするのは間違ってはいないものの、ミスリーディングであり、むしろ言語が公共的であって私秘的でありえないのは前提されている上での問いだと考えたほうが良いと思う。

言語は公共的なのである、当然のことながら。その上で、その公共的な言語の中で、クオリア命名することなどできようか? できなさそうである、というのが例の喩えの趣旨ではないだろうか。

さて、クオリア命名することができるだろうか? できないだろう。そもそも、なぜクオリア命名したいとか思うのか。私の心の中にありありと浮かんでいる何かに名前など付けずとも、対象である物体がその属性として現に持っている色に名前をつければそれで良いではないか。