信念と信念の記述

デイヴィドソンの『主観的、間主観的、客観的』を読み直している。彼が言っているのは、次のようなことではないか。

まず、信念と信念の記述を区別する必要がある。信念とは、ある存在者の種というよりも、ある存在者の性質の種である。そして、ある一つの信念について、その記述は多様でありえる。ある人は「Aは、日本はハワイにだんたんと近づいている、と信じている」というかもしれないし、別の人は「Aは、ハワイは日本にだんだん近づいている、と信じている」というかもしれない。この二つの異なる記述が与えれれた信念は、たぶん同一である。たぶん、「Bは、聖徳太子いなかった、と信じている」という記述と、「Bは、実在の聖徳太子は伝説のようなことをしなかった、と信じている」という記述さえも、同一の信念の記述でありえる。

その帰結として、信念を持っている本人以外のほうが、その本人の信念をよりよく記述できるということもありえる。信念と、そして信念の記述とはそういったものだ。

さて、信念を持っている本人以外のほうがその本人の信念をよりよく記述できるということがありえるとはいっても、信念を持っている本人は、たぶん、かなりよく自分の信念を記述できる、という推定を与えられる。大抵の場合、それは他の人々による記述よりもよりよい記述であるという推定を与えられる。

もっとも、信念を持っている本人による記述がかなりよいという、根拠それ自体は存在しない。信念を持っている本人だけがアクセスできる特別な証拠というものは存在しないからだ。もしそのような証拠が存在し、信念の概念がそのような証拠に還元できるとするならば、信念を持っている本人だけがアクセスできる特別な証拠によって同定される「信念」の概念と、他の人々がその人の行動などから推定する「信念」の概念が同一であるということができない*1

しかし、信念を持っている本人による記述がかなりよいという根拠それ自体は存在しないが、信念を持っている本人による記述がかなりよいという推定を与える理由は存在する。そのような推定を置かなければ、僕たちはコミュニケーションの取っ掛かりを得ることができないからだ。これは「寛容の原理」の拡大である。僕たちは、信念を持っている本人による記述がかなりよいという推定をかなり高いところからはじめ、それに反するような証拠が出てくれば、その推定を弱めていく。そして、どこかで、その推定が絶望的だと思うようになれば、自分がコミュニケーションを図ろうとしていた相手は合理的な人ではなく、おそらく合理的なコミュニケーションはもともと成り立っていなかったのだ、という結論を下す*2

繰り返すと、拡大「寛容の原理」という作業仮説が僕たちには必要であり、それが、信念を持っている本人による記述がかなりよいという推定の理由を与えるが、その推定が正しいという根拠があるわけではない。このようにして、本人が自分の信念のベストの記述を与えられるわけではないということと、自分の信念についての一人称記述の権威が両立される。

この議論の中で、「信念を帰属させる」―あるいはたぶんこういったほうがより正確だと思うが、「ある人の信念を記述する」―ということが、非常に中心的な意味合いを持っている。信念は、直接的に知ったり、間接的に知ったりするよりも、拡大「寛容の原理」の要請の下、ひとまずのものとして誰かに帰属されるものなのだ。いったん帰属させられた信念は、その記述が洗練されたり、帰属が取り下げられたりする。しかし、それで誰かの信念が変わってしまったと考える必要はない。たんに、他の様々な観察と記述と同じように、なんらかの存在者や存在者の性質について、端的に、完全に正確に、それ以上の完成度のないような記述をする、ということが僕たちには不可能である―そういった完全性というものに何か意味があるとすれば―というに過ぎない。まず記述し、その記述をもって帰属させよ。しかるのちに、修正せよ

出来事についてもそうだが、デイヴィドソンは、なんらかの存在者や存在者の性質と、その記述の区別にこだわる。それらを、決して、同一視しない。これらを同一視しないということが、たぶん、デイヴィドソン実在論へのコミットメントの根幹だろう。そして、この非同一視によって、さまざまな相対主義を安全で、非神秘的なものにする。あるワインについて、ある人は「バラのような香りがする」といい、ある人は「形容しがたい高貴な香りがする」という。しかし、それは記述が違うだけであって、香りが違うわけではないと。

*1:僕たちは、この帰結を受け入れても良いかもしれないが、それはややエキセントリックな独我論となるだろう

*2:哲学的なモデルとしては。現実的には、そこまで絶望的な状況になるまえに、「この人とは関わらないでおこう」という結論を下して、実際に関わらないだろうから、そのようなカフカ的な状況には陥ることはめったにないだろう。