人生の目的

人間に所与の目的があるか?

そもそも「所与の目的」などというものが、何かにあるだろうか? ハサミには布・髪、糸といった、比較的柔らかく、かつ柔軟なものを切るという目的があり、辞書にも言葉を調べるという目的がある。したがって、少なくとも、ハサミや辞書といった道具については形而上学的で不可思議なものを考えずとも、ちゃんと「目的」というものを考えることができる。それは、典型的にはおそらく、その道具を製作した人間の心理内容であり、その心理内容はその道具が存在する因果的な原因の一部でもある。

人間には、こういった意味での「目的」があるだろうか? まぁ、ありえるだろう。SFに登場する悲劇のクローン人間のように特定の目的のために造られた人間というのは考えられるし、たぶん現代の技術において不可能ではないだろう*1。ご存知のように、受精・妊娠・出産・誕生という出来事は明確な目的がなくとも起きうることだが、ある程度確率に依存するものの、もちろん明確な目的をもって起こすこともできる。

だから、対自存在やらなんやらといっても、ある素朴な意味においては、人間に所与の目的がありえる。そもそもアリストテレス的な「本質」概念を否定するならば、人間にも動物にも道具にも等しく、その意味での「本質」や「目的」はありえないが、それだけの話である。前述のような、製作者の意図を典型とする非形而上学的な「目的」という語法を道具や動物に対して認めるのであれば、その語法を人間に使うことができないという形而上学的な理由などありえるだろうか。

しかし、その目的に不適格になったからといって、その人を殺すことは許されない。切れなくなったハサミ、汚れてしまって新しいものを買ってきた辞書は廃棄しても構わないが、人間を露骨にかつ言い訳なくそのように扱うことは、たぶんほとんどの人の道徳感情とほとんどの社会の道徳慣習に反する。その意味において、人生には目的は存在しない。

何か、形而上学的、存在論的、認識論的に人間に目的がないから、道具のように使い捨てることが許されてないのではない。逆に、道具のように使い捨てることが許されないから、目的を設定することが許されない(≠できない)。ここでは、道徳が形而上学に先行する。

*1:たぶん、受精卵を意図的に分割・分離して、一方をストックしておくという程度のことは。