デイヴィドソン

デイヴィドソンの思想・理論、あるいは彼の「実在論」が、分かったような気がする。

現代英米哲学で、「実在論」という言葉は、奇妙な、一見は関係なさそうな二つの意味で使われているように思う:

  1. 素朴な、あるいは直感的ないみで、ある種の存在者が「実在」しているか*1
  2. ある種の領域についての言明が、真偽の二値をとるか。

後者の意味において、デイヴィドソンはたしかに実在論者だが、それは皮相な、方法論的な形においてだろうと思う。彼は、真偽という命題的態度が使いやすそうだから、それを基礎においているに過ぎない。

しかし、前者の意味において、デイヴィドソンはそれなりにハードな実在論者ではないかと思う*2

コミュニケーションが成り立っているという前提がある以上、彼らは何かを共有していないといけないし、共有している以上、それは実在していなくてはならない。言語論的転回以前の哲学者が、言語によるコミュニケーションが成り立つ理由として、文や語が表象している観念がコミュニケーションが成り立っている二人の間で一致する・共通する・共有されていることを必要としたように、デイヴィドソンは、言語によるコミュニケーションが成り立つ理由として、実在する客観的な世界へのアクセスが共有されていることを必要としている。

ローティーが考えているように、僕たちが文だけを共有しているのであれば、僕たちはいったい文ないしは語の意味をどこに求めたらよいのだろうか。そして、ただ音声のつながり、あるいはインクのシミであるところの文だけ共有して、意味を共有していないのであれば、コミュニケーションが成り立っているといえるのだろうか? ローティーは、そもそも、意味をどこかに求めるということ自体が、誤ったやり方であるとして、意味を共有せずともコミュニケーションが成り立っているといえるというだろう。

対して、デイヴィドソンは、言語に無時間的に固定された語の意味などを認めないとしても、アドホックに解釈を成り立たせるために、少なくともその場その場では有用な意味論と、そして意味論において二人の間で共有されているという役割を果たす何かが必要だと考えている。

たぶん、もしかしたら僕が戯画化しすぎているのかもしれないが、ローティーの立場を徹底することは、非常に魔術的な言霊を認めることになってしまうように思う。僕たちは、誰かの発した文を理解し損ねたり、多義的だと感じたり、理解困難だと考えている。もし、こういったことが文そのものに内在的であるというのであれば、それはある種の言霊であり、その文はマントラだということになるだろう。

やはり、文や語というのはあるいみで恣意的に選択されたものであり、その恣意的に選択された文や語のあるものは明瞭な意味を持ち、あるものは不明瞭であり、あるものは意味を持たないのは、その音声のつながり、あるいはインクのシミに内在的な何かの性質なのではなく、それとは別の、文や語にとって全く外在的だとはいわないまでも、文や語と「何か」との境界線上・接触面上で生じる現象であるはずだ。

その「何か」は、たんに社会的規約でも良いし、それを了解することが著しく言語を理解することに依存していても良い。しかし、とにかく、それと文ないしは語との関係が、音声やインクに内在的でない性質をもたらすものでなくてはならない。そして、それは、たぶん、何か素朴な意味で実在しており、そのほとんどは物理的なものだろう。

*1:今のところ、これ以上、うまい言い方が思いつかない。同一性の概念をうまく使って洗練することができるかもしれないし、できないかもしれない。

*2:自分では、べつに「実在論者」でなくてもよい、ということを言っているが。たしか。