ドゥウォーキン

『法の帝国』を読みなおさないとよく分からないな、と思いつつ…

「唯一の正しい答え」テーゼについて

「唯一の正しい答え」テーゼは、結局のところ、

  • 法の解釈は合理的になしえる
  • 法の解釈において援用できる合理性、根拠には限界がない(形式論理的な意味で「論理」的な推論をはるかに超えて、資源は豊穣である)
  • よって、法の解釈においては、「唯一の正しい答え」にいたるまで合理的推論を継続できる

ということをいっているように思う。これはこれで理解できるし、重要なことだと思う。しかし、合理的推論を継続できるだけの話であって、実際にそこまで合理的推論するだけの能力が、私たちにあるわけではない。そのため、討議においてどちらの主張がより合理的か合意に達せない場合もあれば、ひとりの人間による推論においても結論が出せないことがあるだろう。ドゥウォーキン自身、「唯一の正しい答え」を出すためのプロセスを描写するのに、半神的超人を想定せざるを得なかった。

ドゥウォーキンは、原理的には「唯一の正しい答え」テーゼが正しいし、そして法解釈は「客観的」だということを主張したかったのであって、現実的に私たちがそれに到達する能力や資源があることを主張しているわけではないので、これはべつに彼の主張の矛盾ではない。

しかし、裁判官が原理的には「唯一の正しい答え」テーゼが正しいと確信していたとしても、あるいは確信しているからこそ、いまだ自分が「唯一の正しい答え」に到達しておらず、原理間の競合について確信していないという状態のときに、むしろ、「唯一の正しい答えがあるとしても、この判決は私の決断である」と述べるのが誠実なことではないだろうか? あるいは、端的に判決を下すことを回避するほうが誠実なのではないか*1? 科学や数学になぞらえるならば、正しい答えがあるのだとしても、現時点ではその答えが分からないのであれば、端的に分からないと述べることが誠実なのではないだろうか。

もっとも、現実的に「唯一の正しい答え」に到達する能力や資源がない、あるいは到達する方法が分からないときでも、「唯一の正しい答え」が存在するという想定に意味がないわけではない。その想定のもとでは、排中律背理法が使えるからだ。ある主張が非常に不合理であることが、帰謬法によって判明したとしよう。その場合、その主張の否定(ないしは反対)が合理的だということになる。これが、「唯一の正しい答え」テーゼが持つべき効用だ。

しかし、判決(広くは裁判)における排中律は、端的に、裁判官は合理的な期間内に明確な判決を下さなくてはならない、という現実的な制約によって説明するほうが合理的だろう。判決における排中律は、訴訟という社会システムの現実的な制約なのであって、ここに高尚な哲学的問題というものは存在しない。つまり、

  • 法の解釈は合理的になしえる
  • 法の解釈において援用できる合理性、根拠には限界がない
  • よって、法の解釈においては、「唯一の正しい答え」にいたるまで合理的推論を継続できる

このような推論(再掲)は不要なのであって、端的に次のようなバラバラの三つのテーゼを主張すればすむ問題であるように思う:

  • 法の解釈は合理的になしえる
  • 法の解釈において援用できる合理性、根拠には限界がない
  • 判決(広くは裁判)においては排中律が妥当する

そして、このように判決における排中律を社会システムの制約ととらえることによって、はじめて、「正しい答えがあるのだとしても、現時点ではその答えが分からないのであれば、端的に分からないと述べることが誠実なのではないだろうか」という問いに対して、それは不可能なのだと答えることができるように思う。

法文について

以前の雑記で、法解釈に「唯一の正しい答え」があるのであれば、正義にも「唯一の正しい答え」があって、それならば結局のところ端的に正義の「唯一の正しい答え」にしたがった解釈が正しい法解釈ということになるのではないか、と書いた。

これに対するドゥウォーキンの回答は、正義以外にも、公正やデュー・プロセスという制約があるので、政府機関間の権力分配の問題から、裁判所は正義の「唯一の正しい答え」にだけしたがうわけにはいかない、といものだろう。これが、純粋な判例法国*2においてどれほどの説得力を持つのか分からないが、議会による制定法のある国においては、説得力のある議論だと思う。

そのような制約、つまり裁判官は法文の文理解釈や可能な解釈、そして文理からの乖離の度合いというものを考慮しなくてはならない、という制約があってはじめて、裁判官は正義の「唯一の正しい答え」に端的にしたがうわけには行かず、法内在的な構成的解釈、法の純一性(原理による一貫性)を求められることになるだろう。

原理の競合について

ドゥウォーキンによれば、法の構成的解釈によって複数の原理が見いだされ、それは抽象的にどちらが優先するというものではなく、相互に一定の力を持って判決の結論に影響を及ぼすものらしい。この構図自体が間違っているというつもりはないが、すこしミスリーディングというか、高尚にすぎるように思う。

第一に、複数の原理が競合して抽象的にどちらが優先するというものではないのだとしても、あるいはそうだからこそ、個別具体的な事案に対する結論においては、どちらかを優先するということになるだろう。そして、抽象的にどちらが優先するのではないのだから、個別具体的な事案に即して、つまりアドホックにどちらを優先するかを考えなくてはならない。同じことを繰り返すが*3、個別具体的な事案においてどちらかの原理を優先するかということについて、どちらの原理が抽象的に優位に立っているかということは助けにならない。そうすると、それは、個別具体的な事案において、いわゆる「こちらのほうが妥当だ」という直感以外になにも援用できないということではないのか。結局、原理の競合は、いかなる原理も援用することができない不合理な結論を排除する以外の効力はなさそうに思う。

第二に、法解釈学説におけるさまざまな説は、それぞれ自説のよってたつ原理を援用しているが、反対説のよってたつ原理を批判するための説得的な議論を必ずしも展開していないように思う。いわば、水掛け論、平行線に陥っているのだ。そして、これは、先の第一の論点の当然の帰結だろう。いちど、原理の競合が明らかになり、それらの原理に優先関係がないということが明らかになれば、そこから意見の対立を解消するための有効な方法はなさそうに思える(少なくとも、一般に使える有効な方法は)。

もっとも、法解釈学説におけるさまざまな対立説が、意味のないものだというわけではない。さまざまな対立説は、それぞれ異なる原理と問題となっている論点とのつながり、いわば新しい視点を導入する役割を果たす。歴史解釈にアナロジーを求めれば、中東戦争宗教戦争と考えているところに、東西イデオロギーの代理戦争という側面を指摘したり、民族紛争という視点を導入したり、資源獲得戦争という視点を見いだしたり、というのと同じような効果がある。このような新しい視点を導入したからといって、個別具体的な事案における判断が容易になるわけではない。むしろ、一般的には、考慮すべき原理が増えることになり、判断がより難しくなるだろう。しかし、最終的な判断が直感によるものであったり、決断によるものであったりしても、より広い視点から判断を下したのだというある種の「合理性」をクレームできるようになるのかもしれない。

このへん、トピク論、トピク法学と関係がありそうだが、さっぱり勉強していないのでよく分からない。

*1:これが不可能であることは分かっている。

*2:そのような国は現在は存在しないとは思うが。

*3:私が混乱していたところなので、自分のために。