ドゥウォーキン『法の帝国』

法哲学者ドナルド・ドゥウォーキンの議論に、若干の疑問がある:

  • (ドゥウォーキンの議論において)法と正義の関係はどうなっているのか?
  • (ドゥウォーキンの議論において)正義に「唯一の正しい答え」はないのか?

この二つの問題についてドゥウォーキンはやや混乱しており、そのために悪法問題、つまり「悪法は法であるか」という問題についても混乱しているように思える。ドゥウォーキンは、「法言語の柔軟性」、つまり「法」という言葉の多義性を強調した後で、次のように述べる:

我々は、この場合には解釈的な態度が全く不適切であると判断し、当の法実務がとるに至った形態をみるかぎり、この実務は国家の強制に対しいかなる正当化も−弱い正当化でさえも−提供しないと判断するかもしれない。そしてさらに我々は次のように考えるだろう。すなわり、あらゆつ事例においてジークフリートは、もしそれをうまくやり遂げることができるならば、立法や先例を完全に無視するべきであり、そうでなくとも、彼が利用できるあらゆる手段を用いて不正を制限するよう可能なかぎり最善を尽くすべきであると考えるだろう。ここでも再び我々は、ジークフリートの国家にそもそも法が存在することを否定するような例の劇的な言葉*1で上記の見解を表現するかもしれないが、そのような表現を用いなければならないわけではない。


ロナルド・ドゥウォーキン、小林公(翻訳)『法の帝国』(未来社、1995年09月)、175項

いや、しかし、ドゥウォーキンの議論においては、「国家の強制に対しいかなる正当化も−弱い正当化でさえも−提供しない」、全く遵法責務を正当化しないような法実務については、それは法ではないと表現をすることができるだけではなく、そう表現しなくてはならないのではないか?

ドゥウォーキンは、あるときは正義を、純一性とは別の制約であるかのように、うがってみれば法そのものとは別の制約であるように語る(前掲書、337〜340項など)。しかし、ドゥウォーキンの描き出す国家の擬人化や遵法責務の姿からいえば、およそ非合理で不正義な法の解釈が純一性の要請を満たし、遵法責務を正当化するのだろうか? きわめて不正義な考えを持つ為政者(擬人化された国家あるいは政府)がいて、「なるほど、彼の考えていることは不合理で、不正義であって、まったく理解できないが、一貫はしている」と解釈するというのはいったいどういう状況なのだろうか。また、そのような場合でさえ許容するような純一性が、遵法責務を正当化するのだろうか。

たぶん、擬人化された国家の行動と発言の構成的解釈というアナロジーを持ち出した時点で、その擬人化された国家は、事実認識においても、正義観においても、合理的でまとまな見解を持っているのだと、想定せざるをえないだろう。だから、正義は純一性とは別の制約なのではなく、純一性の内在的な制約、ひいては法の内在的な制約なのである。

もっともこういっただけでは、ドゥウォーキンの議論は大きなダメージを受けない。彼は「そういった面もある」ということができるし、また、実際、そのような視点を許容しているように思う。しかし、正義には「唯一の正しい答え」がないのだろうか? と考えれば、ドゥウォーキンの議論は大きなダメージを受けるように思う。

正義それ自体に対して構成的解釈をほどこせば、そこに唯一の正しい答えがありうることを、ドゥウォーキンは否定できないのではないか。特定の道徳的ケースにおいて、社会の多くの道徳的言説の一覧を持ち、その内容をよく理解した超人的道徳学者ヤマトタケルが無限の時間を費やして、正義に構成的解釈をほどこせば、その道徳ケースに関係する正義上の原理全てを見いだし、それを適切に比較考量して、正義論上の唯一の正しい答えを導き出して、どうしていけないのだろうか?

ドゥウォーキンは、これを否定するだろうし、また暗に否定しているように思える。彼が法の解釈においては唯一の正しい答えがあるのに対し、正義の構成的解釈においては唯一の正しい答えがないという論拠にできそうなものは、法には擬人化された国家の純一性の要請があるのに、正義にはそのような純一性の要請がないからだ、というものだと思われる。しかし、正義の構成的解釈が可能であるとするならば、それを純一性と呼ぼうが、何と呼ぼうが、合理的な整合性・一貫性を読み込むほかはなく、正義の構成的解釈に必要とされる合理的な整合性・一貫性の要請が、法の純一性の要請とどう異なるのか分からない。ドゥウォーキンは、ある箇所で構成的解釈一般について論じ、「それに加えて」法における純一性を論じるが、それは本当に何かを付け加えているのだろうか?

さて、正義が法の内在的な制約であり、正義に唯一の正しい答えがあるのであれば、遵法責務についてそれ以外の要素が入る余地などあるだろうか。そして、もし遵法責務の根拠が正義に適った法であるからというので十分なのであれば、端的に正義論上の正しい規範が法なのであり、悪法は法ではないのだと考えるべきではないだろうか。

*1:引用註:「ナチスの法は法ではない」という言葉。一般化すれば、「悪法は法に非ず」。