相対主義

例えば、本をいっぱいにつめたダンボール箱を宅急便で送ろうとしたら、「重いですね」と言われるかもしれない。でも、プロレスラーのトレーニング用には、重さが不足しているかもしれない。また、僕にとって栄養十分な食事でも、水泳選手にとってはあまりにもカロリー不足かもしれない。

こういうふうに、何かが重いとか、栄養十分だとかいうのは、その意図、目的、関わる人… 一言でまとめれば状況によって異なる。つまり、状況に相対的だ。たぶん、僕たちが普段言葉に出すことの多くは幾分は評価的で(「大きい」「早い」「高い」「だいたい向こうのほう」)、そのためのそれが正しいかどうかというのは状況に依存する。

しかし、それは「重い」「栄養十分」などといった評価が主観的だ、ということを意味しない。ある食事は、僕に対して相対的にかつ客観的に栄養十分なのだし、水泳選手に対して相対的にかつ客観的にカロリー不足なのだ。水泳選手が何か認識を改めれば、そのカロリーを補えるということはありえない。


これは文化相対主義が問題になる場面にある程度は当てはまると思う。ある狩猟採取民族は、1トントラックが「小さい」という評価が下される状況が理解できないかもしれない。自転車が「遅い」という状況が理解できないかもしれない。しかし、やはり1トントラックが3トントラックより小さいことは客観的だし、自転車が概ねバイクよりも遅いことは客観的だ。

道徳的評価にも同じことが言えると思う。ある人のある行動を僕は「誠実だ」と評価する。別の文化に属する人は、それに同意しない。そういうことはたしかに、ありえる。しかし、その相違のかなりの部分は、それぞれが人の行動を評価するときに想定している、経済的なシステム、共同事業を行うシステムの相違に由来するのではないだろうか。


加えて、もし、あらゆる状況を想定して(そういうことが可能だとして)、なおも評価が食い違っている場合、それは評価そのものが食い違っているというよりも、言葉の翻訳が間違っていると考えるのが正しいだろう。