共同体主義と普遍主義

リベラリストなり、何なりの共同体主義への反対者が感じる「不安」というのは、それが「異なる『伝統』に属する人々の間の公共的議論の不可能性」を示唆していることである。しかし、それを否定するのに何らかの思想は必要ない。端的に、それは経験的証拠に反しているのである。


問題は、共同体主義は、「異なる『伝統』に属する人々の間の公共的議論の困難性」という経験から、「異なる『伝統』に属する人々の間の公共的議論の不可能性」という形而上学的主張を導き出しているように思われることである。

この結論は、前述のとおり間違っている。そして、当然といういうか、この導出自体も妥当ではない。そして、この導出の間違いは、共同体主義の批判するリベラリスト・普遍主義者の間違いと同型であるように思われる。

共同体主義の批判の一つは、リベラリストは「(同じ『伝統』に属する)人々の間の公共的議論の可能性」という経験から「普遍的な公共的議論の可能性」という形而上学的主張を導いてしまった、というものだろう。これは、先ほどの共同体主義者の誤りと同じものだ。


おそらく、どちらの形而上学的主張も正しいとか、正しくないとかいうよりも、役に立たない。どちらも、「人々の間の公共的議論の可能性」、「異なる『伝統』に属する人々の間の公共的議論の困難性」といった経験を、形而上学的な装いで繰り返し、誇張しているに過ぎない。

僕たちは、異なる伝統に属する人々の間の公共的議論の可能性と困難性について、また同じ伝統に属する人々の間の公共的な議論可能性と困難性について幅広い経験を持っているし、適当なトライアルによってその経験を広げることができる。それを裏付けるような形而上学的主張など、必要ない。


このように考えていけば、「伝統」自体も、むしろ「公共的議論の困難性」という経験を説明するために仮設されたもののように思えてくる。「A地域に住む人とたちとは公共的議論が容易だが、B地域に住む人たちとは極めて困難だ。ということは、我々は、A地域の人たちとは同じ伝統に属し、B地域の人たちとは異なる伝統に属するに違いない」と、いったものに過ぎないのではないか。