客観性
「神様なんて実在しない。だから、神様についての客観的な知識なんてありえない」「普遍的な倫理なんて実在しない。だから、普遍的倫理についての客観的な知識なんてありえない」という型の主張、一般化すると「あるものの非実在性から、そのものについての客観的な知識の不可能性を主張する議論」を、最近かなり疑わしく感じる。
これを「非実在性による客観性否定論法」と呼ぶことにしよう。
この非実在性による客観性否定論法は、つぎのような三段論法によっているものと思われる。
- 大前提
- あらゆる議論のテーマについて、その議論の対象が実在しないものならば、その議論による知識は客観的ではありえない。
- 小前提
- ところで、Xは実在しないものである。
- 結論
- よって、Xをテーマとする議論による知識は客観的ではありえない。
僕がこの論法を疑わしく感じる点は、三つある。
- 大前提である「あらゆる議論のテーマについて、その議論の対象が実在しないものならば、その議論による知識は客観的ではありえない」というのが正しいのか? とくに、その大前提自体に基づいて、この大前提は客観的に正しいのか。つまり、「あらゆる議論のテーマについて、その議論の対象が実在しないものならば、その議論による知識は客観的ではありえない」という知識は、なにか実在的な対象についての議論であるのか?*1
- 小前提において、Xに当てはめられる「神様」や「普遍的倫理」などの非実在性はどのように証明されるのか? 見たところ、「神様」や「普遍的倫理」といったものの実在性を否定する人は、(1)その内容的な矛盾を根拠とするか、(2)常識や時代の精神を持ち出すか、(3)「およそそのテーマについての公共的議論が成立しそうにない」という経験に訴えているようだ。しかし、(1)の主張は、じつのところそのテーマについての客観的な、あるいは信頼できる知識を主張しているのであって、結論に矛盾するようにも思える。(3)は、実際には、結論の先取りであるように思われる。というのは、Xについての公共的議論の不可能性という経験から、Xの非実在性を導き出すには、その途中でXについての客観的知識の不可能性を肯定しているように思われるからである*2。
- Xに当てはめられる「神様」や「普遍的倫理」などの非実在性は、大前提に照らして、客観的な知識といえるのか? とくに、その知識の対象、つまり実在する対象とは何か?
しかし、僕がとくに疑問視しており、強調しておきたいのは、2.の(3)の論拠の疑わしさだ。
たぶん、ほぼ全ての非実在性による客観性否定論法は、実際には、公共的議論の不可能性の経験的主張「Xについての公共的議論が成立しているように見えない」から、公共的議論の不可能性の形而上学的主張「Xについての公共的議論が成立するはずがない」を導いている。これは、かなり疑問のある導出だろう。