健やかさと病

資料を見ずに記憶で書いているので間違っているかもしれないが、ニーチェは、彼のいう「奴隷道徳」について奇妙なダブルスタンダードをとっている。彼は、少なくとも彼の生きていた当時の「奴隷道徳」を激しく軽蔑し、罵倒している。他方で、彼の倫理的相対主義のような態度、また「力への意思」についての態度から、「奴隷道徳」もまた一つの「力への意思」の生存競争における生き残り戦略であり、有効な戦略であったことを認めざるをえない。

彼の「奴隷道徳」への認識は、次のように理解するのが分かりやすいと思う。たぶん彼は、「力への意思」生存競争において有効な倫理思想有効ではない倫理思想の区別を認めており、人々が後者に固執するのは病んだ状態であり、軽蔑すべき状態である、と考えている。そして、「かつて『奴隷道徳』はそれなりに健康な倫理思想であったが、現在ではもはや病である」と考えているのではないだろうか。


善悪に換えて、健やかさと病という対立軸を持ち込むのは、ハイデガーの『ヒューマニズム』についても見出せる。

世間の道徳慣習や倫理思想について、それが有効であるか否かの点から評価し、それを健康や病気というアナロジーでとらえることは、現在意外と広範に支持されている立場かもしれない。お上品なパブリックスペースで公言することははばかられるが、「生存競争に不利な病気(障害)」についてなネガティブな評価を倫理思想へのアナロジーとして使い、倫理思想間の評価基準として使うわけである。

これは、社会ダーヴィズムの一種であるか、少なくともそれと同じ危険と魅力がある。そしてたぶん、社会ダーヴィズムや優生学と同じような支持と反発があるだろう。

その魅力のポイントは次のようなものだろう。

  • 道徳的価値相対主義をとりながら、他方で「客観的な」倫理思想間の評価基準を得られる(ように見える)。
  • 進化論や医学、社会学、心理学と結びついて、「科学的」である(ように見える)。
  • 健康/病気(不健康)という基準は、人間にとって内在的、いわゆる「本質的」である(ように見える)。


でも、まぁ、これが道徳的価値相対主義の一種だというのは、欺瞞的じゃないだろうか。これは、道徳的認知主義、実在論、(非還元的?)自然主義の一種だと思う。


確かに理屈でいえば、複数の倫理思想間の中立的で没価値的な評価というのは可能だろう。どちらのほうが複雑だとか、簡明だとか、多数派だとか。

しかし、「健康/病気(不健康)」というのがそれ自体、没価値的な評価かどうかはともかく、「健康/病気(不健康)」という評価が「健康であるほうが望ましい」という規範的評価を引き起こすのは当然だ。だから、もし完全に価値中立的な評価を行いたいのであれば「健康/病気(不健康)」というアナロジーに訴えるべきではない。