賢いことは道徳か?

儒教では,徳として,四徳「仁義礼智」や五常仁義礼智信」を挙げる。儒教のいうとは,道徳的に善い人格の性質ということだろう。

さて,その道徳的に善い人格の性質として,「智」が挙げられていることが興味深い。つまり,「賢いことは道徳的に善いことである」というのが(少なくともある時期以降の)儒教の見解なのだ*1

賢いことは道徳的に善いことである,というのは何も儒教だけの考え方ではなく,初期仏教でも肯定されるだろう。四諦にコミットすることは知的能力によるところが大きいと,少なくとも初期仏教徒は考えただろうし,また八正道の正見・正思惟は知的な能力と関係がある。

また,アリストテレスも,理性的に生きることが人間の幸福な人生であり,善き人生であると考えた*2


しかし,近代以降の哲学者で「賢いことは道徳的に善いことである」と主張した人を,僕は知らない*3

そして,現在の私たちにとっても,「賢いことは道徳的に善いことである」ということは理解しにくい,賛同しにくい命題となってしまったのではないだろうか。そもそも,「賢いことは道徳的に善いことか?」という問い自体が,ナンセンスなものだと思える。

仮に,私たちの常識的な道徳的判断が,行為の是非や帰結の是非だけではなく,人格の性質の是非に注目しているとしても*4,「賢いこと」が「思いやりあること」「正直なこと」といった性質と同等に道徳的に善いことであると考える人は少数派だと思う。

「賢いこと」は確かに望ましいことであるが,「思いやりあること」「正直なこと」と同じカテゴリーではなく,「健康なこと」「足が速いこと」「音感が鋭いこと」と同じカテゴリーに属すると考える人が,多数だろう。つまり,「道徳的に善い人格の性質」と「人間の能力」を区別している。


いつ,どのような事情で,近現代の倫理思想は,「道徳的に善い人格の性質」と「人間の能力」を区別し,「賢いことは道徳的に善いことである」という考え方から遠ざかったのだろうか。

*1:ここでいう「智」を,道徳的判断する賢さに限定されており,数学や科学を理解するための賢さが徳にカウントされているわけではない,と考えることはできる。しかし,いずれにせよ,道徳的に優れた判断をすることが,賢さの一種であると考えられていたことと,その種の賢さが徳と考えられていたことを否定することはできないだろう。

*2:…と理解している。あまり自信なし。

*3:功利主義は,その議論を敷衍していけばいくらか「賢いことは道徳的に善いことである」という主張に近づきそうだが,そもそも一定の人格の性質を一次的に善いとか悪いとか評価すること自体を功利主義は拒否するから,「賢いことは道徳的に善いことである」としてもそれは二次的に,または手段や条件として善いにすぎないだろう。いずれにせよ,「賢いことは道徳的に善いことである」と主張した功利主義者を僕は知らない。

*4:僕はそう思う。