臓器移植問題

基本的な説明

倫理学で盛んに取り上げられる思考実験の一つに、次のようなものがある。

まず、二つの事例:

  • A. もうすぐ死にそうな1人と同様の5人のどちらかを治療することが選べる*1。5人を治療すれば、治療されなかった1人は死ぬが、5人は死の危険を回避することができる*2。5人を治療するべきか?
  • B. さしあたって死の危険がない1人から強制的に臓器移植を行い、もうすぐ死にそうな5人を治療することができる。強制的臓器移植を行えば、臓器を摘出された1人は死ぬが、5人は死の危険を回避することができる。5人を治療するべきか?

次に、三つの問い:

  • a. AにYesと答えるか? Noと答えるか?
  • b. BにYesと答えるか? Noと答えるか?
  • c. aへの回答とbへの回答は矛盾しないか?

この答えは、理論的には8通りある:

  • 1. (a)Yes - (b)Yes - (c)矛盾しない
  • 2. (a)Yes - (b)Yes - (c)矛盾する
  • 3. (a)Yes - (b)No - (c)矛盾しない
  • 4. (a)Yes - (b)No - (c)矛盾する
  • 5. (a)No - (b)Yes - (c)矛盾しない
  • 6. (a)No - (b)Yes - (c)矛盾する
  • 7. (a)No - (b)No - (c)矛盾しない
  • 8. (a)No - (b)No - (c)矛盾する

これらの回答について、検討しよう。


回答しない、という態度もありえる。とくに、(b)については、それを選択しようとすること自体傲慢過ぎるとか、どちらかが「道徳的に正しい」と考えることは不遜だとか、YesもNoも道徳的な正しさは同じだとか、あるいはそもそも「道徳的に正しい」答えなどありはしないとか、考える人も少なくないだろう。

でも、それを言っては話が進まないので、ここではひとまず置いておく。

さて、(1)についてNoとする5〜8の回答は、ありえないとまでは言えないが、ひとまず考える必要がないだろう。回答しない/選択しないという態度を除いた上で、(1)についてYesかNoを選ばなくてはならないなら、Yesのほうが道徳的にマシだというほうに大方の意見が一致するだろうから。

また、規範倫理学が目指すのは基本的には一貫した矛盾しない立場なので「矛盾する」になる(2)と(4)もひとまず考えの埒外に置くことにする。そうすると、残る選択肢は、結局二つ:

  • 1. (a)Yes - (b)Yes - (c)矛盾しない
  • 3. (a)Yes - (b)No - (c)矛盾しない

功利主義あれこれ

単純な功利主義の立場をとれば、(1)を選択することになる。それに対して、(3)を擁護したければ、功利主義を何らかの形で修正するなり、あるいは功利主義を根本的に放棄するなりして、そのうえでその自分の道徳的立場を一貫した説明へと展開しなくてはならない*3


功利主義の修正として、まず規則功利主義がある。つまり、Bの事例の場合、臓器移植を許せば今回はたしかに効用が向上するが、これを許すようなルールを維持していては長期的には効用が低下するだろう、というように考える*4

もう一つの修正として、「効用」「功利」「快」あるいは「福利」「幸福」を単純に生死や健康性に結びつけない立場をとることもできるだろう。いわく、そのようにして臓器を移植された人たちは、決して幸福ではなかろう…

この二つめの修正は、表面上は、事実分析的な修正と、定義的な修正に分けられるだろうと思われる。つまり、そのような人たちの「快」あるいは「幸福」は低いものである、事実としてそうなのである、と主張するのが前者。後者は、そのようにして得た「快」は… なにか「本当の幸福」のようなものではない、定義的にそうなのである、功利主義の定義をそのように変更する、と主張する。

しかし、この事実分析的な修正と定義的な修正を明瞭に区別することはできないだろう。先の規則功利主義もまた、建前上は事実分析的な修正だが、実際にそれを一貫できるかは極めて疑わしい。


このあたりをどう考えるべきなのかは、よく分からない。たぶん、「効用」「快」「幸福」といったものそれ自体が、ある種の合理的再解釈に開かれていないと考えることは、非常に奇妙なアイデアに僕たちを導く、ということは言えるだろう。

例えば、人間が快を感じているときは、脳細胞がある種の興奮をしている、あるいはある種のホルモンに浸されているといったようなことが完全に判明したとしよう(この種のことですでに多くのことが判明している)。では、人間のヒトES細胞を大量に生産し、それを脳細胞に分化させ、何京人分に相当する脳細胞を作り出して、それぞれ一つ一つ、あるいは数十個の小片に分けて培養液で維持するとしよう。そこで、先ほどの興奮を起こすなり、ホルモンに浸すなりする。

こうすれば、人類全体の「効用」「快」「幸福」が劇的に増加するのだろうか? あくまでYesと答えられるのか? うーん… これが人類の飛躍的な向上だと考えるのは、とてつもなく奇妙であるように思える。

あるいは、こう考えるべきだろうか? それはたしかに「効用」「快」「幸福」であるのだが、遺伝的な意味でのヒトの細胞は必ずしも人間を構成する細胞ではなく、したがってその「効用」「快」「幸福」は人間のものではないので、功利主義からみてカウントの対象外だ、と。

たしかにそう考えてみることもできるが、質的に同じ「効用」「快」「幸福」であるのなら、どうして人のものと区別、もっと言えば差別するのか、という問題がでてくる。

*1:1人と5人の組み合わせを変えることはできない。また、どちらも治療しないという選択肢はないものとする。

*2:つまり、通常の健康な人が通常に生活を送る程度には。

*3:本当に「道徳的立場を一貫した説明へと展開しなくてはならない」のか? べつにそんなことをしなくても僕達はひとまず生きていけるし、そんなことを生真面目に追求している人のほうが少数派だ。たしかに、それを必死で追求していくことは、僕たちのほとんどにとって手に余る課題である。とはいえ、ある程度はそのような追求を行わなくてはならない、と僕は考えている。(1)こういった一貫性、合理性の要求をまったく拒絶することは、そもそも道徳的判断、道徳的選択というもの不可能にするだろう。(2)実際のところ、完全な道徳的ニヒリストとして人生を送れる人はまずいないと思われる。つまり、このような探求を完全に拒否することもまた僕たちの手に余る。(3)そのような探求をある程度行う能力は僕たちに備わっている。そうでなければ、僕たちが現に行っているような道徳的な対話、自己正当化、道徳的非難などが一切行えなくなるだろう。

*4:この事例Bについては、これは説得力がある。ルールの功利性を考えるならば、少なくとも強制的臓器移植よりも臓器売買のほうがマシだろう。