『一冊で知る虐殺』

1冊で知る 虐殺 (「1冊で知る」シリーズ)

1冊で知る 虐殺 (「1冊で知る」シリーズ)

ジェノサイトのいろいろな問題を解説しよう、という本。たぶん「現在進行中の虐殺に私たちはどう取り組むべきか?」という問題意識からダルフールの扱いがもっとも大きいけど、地域的には世界中の、歴史的には古代のカルタゴ壊滅から現代までの虐殺が視野に入っている。

その膨大な内容をいわゆる新書サイズに詰め込んだために、またそもそもジェノサイドが複雑な問題であるために、全体的に漠然? 抽象的? になっていることは否めない:

  • なぜジェノサイドは起こるのか? - 先住民のいる土地に入植者を送り込むとき、ある民族集団などを排除して国の支配を確立しようとするとき、ある政府の彼らなりのユートピアを建設しようとするときなど、いろいろ。
  • どこでジェノサイドは起こるのか? - 地球上の「どんな場所でも起こる」(48項)
  • いつジェノサイドは起こるのか? - 戦争中に起こることが多いが、それ以外でも起こる。
  • 誰が加害者になるのか? - 「誰でも、どんな人でも加害者になれる」(70項)

しかし、それでもなお、虐殺の予兆は察知可能であり、予防や開始されてからの制圧も可能である、というのがスプリンガーの重要な主張。

ただ、この著者が僕よりも国際政治に疎いということはまずないだろうと思うのだが、奇妙にナイーブであるように感じられる。全体的な印象としてもそうだが、とくに次の部分:

2004年12月末のスマトラ島沖地震による津波被害に対する世界中からの心温まる支援は、次のような問題を提起した。なぜ同じような支援がジェノサイドではできないのだろうか? ジェノサイドも災害だ。なぜ人はジェノサイドのよう人災よりも、津波といった天災の被害者を助けるのだろうか? 両者には違いがある、と考えるからだろうか?

津波の被害者は何の罪もないのに命を落した。それでは、ジェノサイドの被害者はどうだろう? たいていの人は認めないだろうが(否定するだろうが)、ジェノサイドの被害者の身の上に起こったことは本人にも責任がある、と多少なりとも考えているにちがいない。

津波の被害者を純粋な被害者と認めるときには、「ほかの人間の手にかかって大量虐殺された人」というショッキングな事実に直面する必要がない。さらに同胞である人間(つまり自分自身)の暗黒面と向き合う必要もない。

津波の被害者を助ける場合、不快な、あるいは「言語に絶する」真実に出くわす必要がない。ところがジェノサイドの被害者を助ける−ジェノサイドが起こる前に防止を呼びかけるのが最善だが−場合は、そういうわけにはいかない。


(143-144項)

ここでスプリンガーが列挙している要因は存在するだろうし、それでもなお僕たちは虐殺を予防し、それを制圧し、被害者を助けなくてはならない。それはたしかにそうなのだけど、津波被害者の救援よりもジェノサイド被害者の救援に及び腰になるのは、そういった要因だけではないだろう。

なんといっても、進行中のジェノサイドを実効的に制圧するためには、少なくともサブマシンガンなどを持った組織だった武装集団と敵対しなくてはならない。津波の被害現場も治安はかなり悪化したはずであり、その救援も安全なものではないが、それとジェノサイド実行組織と対立する危険度は大いに違うだろう。

また、ジェノサイドの場合は、国際的に承認された現地の「政府」が直接的に、あるいは間接的・実質的にジェノサイドを支援しており、外国から救援を拒絶するから、内政干渉という抗議をうみ、救援をやれば受け入れを拒否している国での軍事展開にならざるをえない。実際のところ、軍事侵攻、戦争といえるだけの活動をする覚悟がないと、実効的に制圧できるか分からない。

さらに、津波被害救援の場合は、ともかくも急場をしのぎさえすればいちおう現地の努力によって生活再建が進むだろうという期待をすることができるが、ジェノサイドの場合は殺していた集団と殺されていた集団が協力して生活を再建していくのを見守っていくのに、とてつもない時間とコストがかかる。

繰り返すけど、それでもなお、ジェノサイド・虐殺を制圧し、被害者を救援すべきだというのは正しい。また、先進国が覚悟を決めて取り組めば、それは可能だ。でも、上述部分で列挙された要因だけで違いを説明しようとするのは無理がある。