ドゥウォーキン『裁判の正義』

ロナルド・ドゥウォーキン『裁判の正義』*1を読み終わった。二点、疑問がある …ただ、どちらもその内容をはっきり特定しつつ考えたわけではないので、かなり曖昧:

類比

正確な場所を見つけられないが、どこかで「原理なき類比は盲目である」という言葉を引き、類比による推論は、結局、原理への訴えかけを必要とする、という議論を展開していたように思う。たしかに、合理的な人々が欺瞞なくある類比が成り立つかどうかで鋭く意見を対立させているならば、その類比が成り立つ、成り立たないという水掛け論だけを繰り替えしていても意味はなく、原理への訴えかけが必要だろう。

でも、その類比を支えている原理が明確ではなく、ほとんど、あるいは実質上まったく意識されていないときにも類比は可能だし、広範な公共的同意を得られることもある。むしろ、法や道徳の判断においては、そのような類比についての同意が可能であるからこそ、原理についての共通理解を得られるのではないだろうか?

これこれは不正であるという複数の事例があって、それらが不正であることにはすべての人が同意していても、それらが同じ原理によって不正であると意見が一致している保証はない。すべて同じ原理によって不正であるという人々がいる一方で、Aグループはこれこれの原理によって不正であり、Bグループはまた別のこれこれの原理によって不正である、と主張する人々がいるかもしれない。

原理の特定の前に、不正である事例のグループ分けが必要なのであって、その場合には「合理的な類比」という人間の能力に訴えざるを得ないのではないだろうか。これもまた過度な単純化だとは思うが、ともあれ、ドゥウォーキンは類比の能力をスポイルしすぎなのではないかと思う。

道徳的内在主義/外在主義

この本を読んでいて、ふと気づいたが、ドゥウォーキンは公共的に正当化された道徳になぜ従わなければならないのか、あるいは人は道徳になぜ従うのかについて、いっさい説明を行っていないようだ。

『法の帝国』の記述によれば、ドゥウォーキンは一種の道徳的実在論者であるのは間違いない。しかし、その「道徳」は社会が実際に行ってきた、また行っている道徳慣習の絶え間ない公共的な再解釈の上になりたっているものであって、遠くはなれた時代・場所、例えば古代ローマの道徳慣習についてさえ、専門家が「内側から」解釈を行えるもののように思える。では、僕たちは古代ローマの道徳に従う必要はないのに、現代日本、あるいは人に応じて英国や米国の「道徳」に従わなければならないのは何故なのか?

『法の帝国』においても、『裁判の正義』においても、ドゥウォーキンは、この点についていっさい説明を行っていないように思える。しかし、それにも関わらず、ドゥウォーキンはどこかしら道徳的内在主義を前提してしまっているようにも見える。もっとも、むしろ、「道徳や正義論は『道徳的にあろうとする』人に対してだけ意味があり、それで充分だ」という立場が正しく、ドゥウォーキンは正しくもそういった立場に立っているのかもしれない。

しかし、それにしても、『法の帝国』における道徳の性格付けは、魅力に欠きすぎではなかろうか。この辺、僕自身の立場は固まっていない。ただ、最近は、リチャード・ノーマン『道徳の哲学者たち』の立場、他者との適切な関係は自分にとっての幸福の一部である、という見解を、まさにドゥウォーキンの議論によって補強してみるのが、魅力的なのではないかと思う。

つまり、たいていの人は共生的な関係を自分の幸福の一部として受け入れている(この辺がノーマン)。ここで「共生的な関係」な関係とは:

  1. 相手との関係で、自分はある行動をとるだろうという予測と、ある行動をとるべきだという義務と、ある行動をとってもよいという権利・許容の理解を持っており
  2. 相手も、そのようなその人自身の行動の予測・義務・権利についてその人なりの理解を持っており
  3. かつ、自分は相手の理解について、相手は自分の理解についても理解しており
  4. これらの理解はそれなりに安定的である

というものだ。こういった共生的な関係を維持するためには、たいていの場合、「クラスメート」「友人」「夫婦」「親子」といった出来合いのモデルについての広く共有された理解からはじめるのが手っ取り早く、たぶん必須でさえあるだろう。だから、自分の幸福のために、そのような出来合いのモデルのもとで共生的な関係を築き、その構成的解釈に従事することが(この辺がドゥウォーキン)、僕達に動機付けられる。

うーん…

*1:

裁判の正義

裁判の正義