脳の不可逆的機能停止について

いろいろ考えがまとまらないところがあるけど、僕はいまのところ次のように考えている。

まず、「脳死」という問題がどういう問題かについて。問題のひとつの原因は、人の死という概念が曖昧なことにある。もしかしたら、すべての概念、少なくとも「抽象的な」概念*1は、それぞれなりの曖昧さを持っているかもしれず、そういった意味では死という概念が特別に曖昧なことにはならないのかもしれない。しかし、他の概念が曖昧であるかどうかはともかく、人の死という概念が曖昧であって、その曖昧さが次のようないくつかの要因に関連するために「脳死」という問題が起きているとはいえるだろう。

  1. かつては、生存している状態から、生存中なのか死亡しているのか曖昧な状態、そしてほぼ完全に死亡していると判断できる状態へ、通常はかなり短い時間で移行した。しかし、医療技術の発展により、さまざまな手術や延命?措置を選択する余地があるほどの長い時間、その曖昧な状態が継続するようになった。
  2. これは過去も現在もそうだが、法的な意味における人の死というのが大きく法的状態を変動させ、保護されるべき権利・利益の判断を変動させる。
  3. 脳が不可逆的に機能停止した身体からの臓器移植という、少なくとも一定の人々へ利益を与える技術がある。
  4. 1〜3が複合して、脳の不可逆的機能停止が(法的な意味で)人の死であれば臓器移植という利益が提供され、人の死でなければ(少なくとも本人の「ほんとうの」死を引き起こすような)臓器移植は許されなくなってそれによる利益が提供されなくなる。
  5. しかし、人の死という概念が曖昧なので、法的な意味におけ人の死の基準を脳の不可逆的機能停止の時点におくか、それ以後におくか、合理的な決着点が見出されていない。

人の死を脳の不可逆的機能停止の時点におくものも含めて、人の死の時点を確定する、あるいは説明する基準として、次のようなものが考えられる:

  • 霊魂が肉体から離れた瞬間。僕は、ここでいう霊魂というものは非合理な観念だと考えるので、この基準自体、非合理だと考える。その点をおくとしても、この基準で、脳の不可逆的機能停止の時点で霊魂が肉体から離れるのか、あるいはそれ以後に離れるのか確定することは困難だろう。
  • (人格的な統合をもつ?)精神活動が終了した時点。たぶん、脳の不可逆的機能停止を人の死と考える立場は、このような考え方を前提にしているものと思う。僕自身も、以前はこう考えていた。しかし、今も、脳の不可逆的機能停止が(少なくとも人格的な統合性を持つ)精神活動の終了だとは考えているけども、それを人の死の基準とすることにはそれほど説得力を感じない。第一に、これは単に「霊魂分離説」を唯物論化した変形バリエーションに過ぎず、その見かけ上の説得力を、僕が非合理だと考える霊魂分離説から密輸入しているだけではないかという疑問がわく*2。第二に、なぜ、精神活動にそんな特権的な地位を与えるのか、理由がわからない。

結局、僕としては、脳の不可逆的機能停止の時点が人の死であるか、あるいはそうではないのか、どちらの側についても合理的な論拠はなさそうだという感触を持っている。だから、この問題は、人の死という概念がもともと曖昧なものであることを認め、その曖昧な概念から大きくは逸脱しない範囲で、法的な意味における人の死の概念をどこに定めるべきか、という議論として扱ったほうがいくぶんかマシだろう。しかしながら、後者の議論として整理したところで、やはりどちらの側に立つのか説得的な論拠は、いまのところとくに思いつかない。

とはいえ、僕自身、僕の身体がどう扱われてほしいのかということについては、いまのところ次のように考えている。僕の脳が不可逆的機能停止に至ったら、その身体は移植技術を活用して有効に活用してほしい。繰り返しになるけど、僕は脳の不可逆的機能停止が自分の死だと考えているわけではない。そうではなくて、僕が脳の不可逆的機能停止に至って人格的に統合された精神活動を行えなくなったのであれば、それでもなお何らかの意味で僕が生きているのだとしても、現在の僕の判断として、臓器移植をしてくれたほうがうれしいのだ。

例えば、僕が重大な事故にあって、右腕がまったく動かせなくなって、日常生活において利便性を提供しないということになったとしよう。そして、その右腕を他人に提供することにより、その人の命を救え、かつその人がその(元)僕の右腕を大切に扱ってくれるとしよう。それならば、やはり大きな葛藤はあるだろうが、結局は、その人に僕の右腕を提供するという結論にいたるのではないかと思う。これは、そのような境遇にいたった僕以外の人に対して、そうしろ、そうするべきたというほどの判断ではない。しかし、僕としては、提供により満足感情を得るだろう。

もちろん、脳の不可逆的機能停止の後に(僕の立場では人格的に統合された精神活動の終了)、臓器提供によって僕自身が満足感情を得ることはない。だから、その点では、効用の増大はない。しかし、現在の判断と意思表明によって、未来に発生するだろう事象の確率を変動させ、その可能性の変動に満足をえることは別に非合理でもなんでもないだろう。よって、現在の僕が、脳の不可逆的機能停止後の臓器提供についてなんらかの判断と意思表明をし、満足の感情をえることも不合理ではない。

もっとも、これもまた、身体に対して精神活動に優位な立場を認めているのは間違いないだろう。変な言い回しだが、このような僕の精神の独裁は、僕の身体それ自体の権利を侵害しているのではなかろうか? なんと言い表したらよいのかわからないが、そんなような感覚は残る。しかし、ふだん僕たちの決断や道徳的判断はそのような精神の独断のもとに行われ(当然といえば当然だが)、法的な枠組みもそれにそって作られている。なので、脳の不可逆的機能停止が人の死かという抽象的な概念レベルでは精神活動に優位な立場を認める理由が疑問としつつ、僕自身が僕自身の身体についてどのような決断を行うかという面においては、精神の独裁を認めるのも不合理ではないし、むしろ止むをえないように思える。

*1:特定の時空的事物を指示しているとは言いがたい、あるいはそういうのに疑問がある概念。

*2:たぶん、歴史的には正しいだろう。