クーンの「パラダイム」とクワインの全体論

この雑記の記事は、しばしば、あるいは常にそうだけど、記憶に頼って必ずしも正確に理解している自信のないことを書くので、あまり信用しないこと。


さて、クーンのパラダイム論は、二つの異なるパラダイムの間では通約不能あるいは比較不能であるとする。この結論自体は、次の限りで、支持できる。「パラダイム」というのは、(いろいろ重要なポイントを外してしまうことになるけど)ひとまず「文法」と言い換えてもよいだろう。自然科学の理論であれ、あるいはその他の理論であれ、文法が異なってしまうならば、それを安直に同じ文法だと信じ込んで比較しようとすれば、おかしなことになってしまう。例えば、ローマ字で書かれた日本語の自然科学の論文を、無理やり英語で読めば、もちろんその理論は実験・観察の結果に反した内容となっているだろうが、無理やり英語で読めば実験・観察の結果に反した内容だからその理論は間違っている、というのはまったく不当な言いがかりに過ぎない。

ところで、むしろ科学の歴史において、そのような文法の転換が起こったのか、起こったのであればそれはいつか。クーンは、相対性理論が受容された時にそのような転換が起こったと考えているようだが、この点については僕は疑問に思っている。ただ、中世ヨーロッパの自然哲学と現代の物理学の間には、そのような転換が起こったと考える余地は十分にあるかもしれない。


異なる文法(パラダイム)で記述された二つの理論は通約不能あるいは比較不能であるというのがクーンの立場だといって良いと思うが、クーンは、同じ文法(パラダイム)の上に競合する二つの理論がありうること、そしてそのような二つの理論の間には優劣の差がありえることを否定するわけではないだろう。

むしろ、そのような同じ文法(パラダイム)の上に競合する二つの理論 …というよりも、いかなる二つの理論の間も通約不能であるという結論が導かれるのは(あるいは、導かれそうに思うのは)、デュエム-クワイン・テーゼとそれを元にした意味の全体論の方だろう。曰く、語の「意味」は、その言語ないしは理論においてその語が他の語とどのような関係にあるのかということによって決まる。また、ある語の「意味」が異なれば、その言語ないしは理論におけるすべての語の「意味」が異なる。よって、異なる理論の間には、同じ「意味」の語は一つもない。


いかなる二つの理論の間も通約不能であるということについて、クワインはどう考えているのだろうか。これは想像するのではなく、クワインの著作をもう一度読み直すのが本道なのだけど(以前読んだときには、ちんぷんかんぷんだった)、たぶん、「だから、『意味』という概念は不要なのだ」と答えるのではないかと思う。

クワインは「意味」という存在者について、なんというか、嘲笑的な無視をする。まぁ、たしかに、指示対象とは区別された「意味」という存在者がどこかに存在して、それを人間が認識しているという構図は、滑稽なものというほかない。でも、クワインが「意味」という概念を嫌うポイントは、そういう形而上学的なところではなく(というか、そういう問題であれば「意味」という存在者が奇妙であることは明白)、同義性であれ、有意味性であれ、それが中立的な、あるいは「客観的」な視点から判断できるということを拒否するためではないだろうか。

たぶん、クワインの考えでは、ある理論とある理論が同じであるとか、異なっているとか、どこが同じでどこが異なっているとか、さらにはその間の決定実験はどのようなものかということが「客観的」に決まる、ということ自体がおかしなことなのだ。ある理論とある理論を通約可能にするのは、それらの理論をともに理解可能なものとして解釈しようとする人間の努力であり、技能であって、それらの理論の内在的な性質だけではない。だから、「客観的」には、いかなる二つの理論の間も通約不能であるのはあたり前ということになる。