科学と宗教

「科学」を「知の体系」一般として定義すると、「『科学』も新手の宗教である」というのは、例えば「真善美のうち、真の卓越的価値を信じる信仰」ということになるだろう。

僕は、知(あるいは真)に極めて重要な価値があると思っている。これは、価値の議論の中でおそらくもっとも重要な道徳的議論において、事実を知ることが極めて重要だと考えていることによって補強されている。

加藤尚武が指摘しているように、いっけん道徳的判断の対立に見えるものが、じつは事実判断の対立であったりする*1また、パトナムが指摘しているように、奇妙な道徳的主張を行う人は、かなりの確率で奇妙な事実的主張を行うものだ*2

ただ、国内や国外で貧困や飢餓で苦しんでいる人がいるのに、そういう人たちに食料とか生活物資とか開発投資の援助を十分に行わず、莫大な費用をかけて宇宙探査を行ったり、量子加速器で基礎物理の研究をやることは善いことなのか、という議論がある。僕は、知の卓越的価値だけを主張して、こういった多大な費用がかかる科学研究を政府が支援することを正当化することができない。

そういったわけで、僕は、知の卓越的価値を信仰しているとまではいえないし、知の卓越的価値だけを根拠にこういった科学的研究を正当化できると考えている人には、「いささか宗教的なのではないか」という印象を持つ。


「科学」を、ある方法論に基づいた「ある一つの知の体系」として定義すると、「『科学』も新手の宗教である」というのは、例えば「検証主義への信仰」「自然の斉一性への信仰」「物理領域の因果的閉包性への信仰」「科学者という権威への信仰」「科学の教科書に書かれていることへの信仰」といったものとなるだろう。

僕は、「ある一つの知の体系」として科学を信頼している。科学には、ちゃんとしたベネフィットがあるからだ。いつ来るか分からない世界の終末とか、どこにあるのか分からない向こうの世界だとかでのベネフィットではなく、僕が生きているこの世界、この時間でのベネフィットがある。


そういったわけで、僕は科学を信じている。でも、これはべつに、僕が無神論者であることとは関係がない。僕が科学を信じる理由は以上のとおりだが、僕が無神論者であることとは関係がない。

僕が無神論者であるのは、たんに「神」という概念が理解できないからにすぎない。

*1:『現代倫理学入門』14章。加えるなら、デヴィッド・フリードマンが『自由のためのメカニズム』で指摘しているように、政策についての対立が道徳的判断の対立のように見えても、じつは事実判断の対立の解消で、合意に至ることもあるだろう。

*2:とくに陰謀論