概念枠・相対主義

僕たちは、僕たち自身が・・・ あるいは僕は、僕自身がとらわれていてその外に出ることもできず、自覚することも、認識することもできないような超越的な概念枠を、自覚することも、認識することもできないから(トートロジー)、そのような超越的な概念枠について考えても仕方がない。そのような概念枠を脱出すれば、何か素敵なものが、純粋な客観だとか、純粋なセンスデータだとかを得られるかもしれない、というのは神秘について語っているに等しい。パトナムの言葉を(おそらく文脈を外したところから)借りれば、「それはSFなのだ」。『幼生期の終わり』のような種類の。我々の憧れを、その細部については検証も理解もできないような形で語った、もっともらしい「おはなし」にすぎない。

したがって、そのような超越的な概念枠同士の競合を論じる強い相対主義、絶対的相対主義とでもいうものは、神秘であり、SFであり、ファンタジーでしかない。

しかし、だからといって、僕たちが日常的に複数の観点を持ち、それを切り替えているということ、ある程度は自覚でき、認識でき、操作できるような概念枠、フレーム、観点、文脈というものを持てないということはない。ある写真について、それを化学的な見地から考察したり、著作権的な見地から考察したり、撮影者と被写体の社会的関係について考えたりということは十分にできる。これらを、非超越的な概念枠と呼んでみよう。

そうすると、超越的な概念枠の相対主義は結局は理解することができないファンタジーだが、非超越的な概念枠の相対性は僕たちの日常的経験にすぎない。


もっとも、例えば、アニミズム的世界観、キリスト教一神教ユークリッド幾何学、フロギストン説のように、かつてある地域・ある時代に生きていた人々にとっては超越的な概念枠だったものが、現在の僕たちにとっては非超越的な概念枠だということはありえるだろうか?

ありえるだろう。ある概念枠が超越的であるか、非超越的であるかというのは、その概念枠自体の属性ではなく、たんに僕たちの能力の問題にすぎない。ある概念枠が超越的であるというのは、たんに僕たちがそれを自覚し、認識し、操作する能力を獲得していないというに過ぎない。

しかし、そうすると、結局は、僕たちの超越的概念枠もいつか克服する見込みがあるのだから、超越的な概念枠について語ることができるのではないか? それはできないと思う。ある概念枠が超越的かどうかは、僕たち自身の能力に依存するがゆえに、僕たちは超越的な概念枠についてファンタジー以上には語れないのだ。

4月19日の僕は4月20日の記憶について語れないが、4月21日の僕は4月20日の記憶について語れる。しかし、「明日の記憶」については永遠に語れない。