すっぱいブドウ

選ばなかった方のチョコは「すっぱい葡萄」である - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
モンティ・ホール問題と認知的不協和(前回の続き) - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

僕は心理学徒でもなんでもないけど面白いエントリだと思ったのでコメント・・・ しようとしたら、長くなったので、トラックバックに。

モンティ・ホール問題とどう関係あるのか良く分からないけど(「事前情報によって確率が変る」という大雑把な意味では同じかな?)、Keith Chen の指摘は正しいのように思う。

簡単に言えば、一回目の実験で「青を選ばなかったサル」のグループを集めたんだから二回目の実験でも青を選ばない可能性が高い、ということだよね。もう少し厳密に考えるとA = {(r, g, b) | r, g, b ∈ R ∧ r > b}の集合の中で、(r, g, b) ∈ A(ただし、g > b) なる元の割合はどれだけか、ということになると思う。

それはそれとして、こういう実験で認知的不協和について何か分かるのか、そもそも認知的不協和とは何かと考えると良く分からなってきた。

まず第一に、認知的不協和について扱いたければ、「赤を選んだサル」又は「青を選ばなかったサル」ではなく、「青を選びたかったけど、選べなかったサル」というグループを作らなければならないのではないか。第二に、「青を選びたかったけど、選べなかったサル」が再び青を選ばない確率が有意に高いとして、それが「青を選ぶのは不可能である」という信念・認知が形成されたからなのか、「青は嫌いだ」という負の選好・欲求又は「青はマズい」という信念・認知が形成されたからなのか、区別する必要があるのではないか。

そうすると、そもそも「すっぱいブドウ」のキツネの寓話にしても、あのキツネを外部から観察している実験者からは、

  • 「あのブドウを得ることが不可能だ(又は過大なコストがかかる)」という信念が形成されたから、そのブトウを採ろうと試みなくなり、以後、類似の状況においても試みない
  • 「あのブドウは嫌いだ」という負の欲求、又は「あのブドウはマズい」という信念が形成されたから、そのブトウを採ろうと試みなくなり、以後、類似の状況においても試みない

のどちらなのか区別できないように思う。

一般化して言えば、コストをかけて効用を得る行動が変化した場合に、コストについての評価が変ったのか、効用についての評価が変ったのか、どちらか区別する必要があるが、それを調べるのは容易ではない。そして、後者であれば認知的不協和の事例となるが、前者であれば妥当な学習*1であって認知的不協和を持ち出さなくても説明できる場合がある。

これは、行為者の行為を信念と欲求の積によって説明する前提からは、信念の変化を確認しようとすると欲求を固定しなければならず、欲求の変化を確認しようとすると信念を固定しなければならず、また信念は全体論的にしか特定できない、ということから、単純な行動主義は採用できず、機能主義に至るということの一場面のように思う*2

*1:知能の意味で「愚かしい」過度な一般化だったりもするだろうが。

*2:さらに突き進めば、言語コミュニケーションがなければ十分に信念を確定できないから、動物に心を認めることができない、という立場にもつながる。