助動詞とアリストテレス

僕は、少なくとも「助動詞」に関しては、英語より日本語のほうが発達していると思う。

「〜〜であろう」「〜〜であるべき」というのはもちろん、「〜〜と思う」「〜〜と考える」「〜〜である可能性ある」「〜〜である可能性ある」「〜〜である可能性ある」・・・

こういった言い回しも、言語学的には(とくに構文論的には)正確には助動詞ではないだろうが、少なくとも僕の日本語の運用としては助動詞と置換可能だし、構文論的な意味での助動詞を含めてどれを選択しようか悩むので、広い意味で「助動詞」と言って良いように思う。

もっとも、こういう「〜〜と思う」「〜〜と考える」「〜〜である可能性はある」というのは不明瞭な言い回しであって、そういう不明瞭な言い回しを助動詞的に用いるのではなく、必要なのであれば「I think...」と「私の心理状態に関する事実」への言及として記述する英語のほうが、日本語よりも論理的で洗練されているという人もいるだろう。

しかし、では、英語話者は「may」などで示される可能性、あるいは「ought to...」で示される義務形而上学的・存在論的にどのようなものであるか、誰でも論理的に説明できるというのか?


で、話は変って、アリストテレス。僕は今まで、「should」を日本語に文脈ごとにどう訳すかでずっと悩んできたが、これはアリストテレス形而上学を考えれば、すっきり納得できるような気がする。「A should B」とは、「本質存在A は B する」ということではないかと思う*1。やわらかい言い回しをすると、「A が B することは、A の本質に適っている」、あるいは「正常に物事が推移すれば、A が B する」、「A は B するのが当たり前」。

うむ。もし、これが正しいとすれば、英語の助動詞「should」は、アリストテレス形而上学が洗練されているのと同じように、たいへん洗練されている。そして、アリストテレスの物理学が陳腐化してしまっているように、陳腐だ。

*1:したがって、ここで問題になっているのは本質であるので、可能的か、現実的かというのは区別されない。また、本質存在を問題にする点で、単なる遇有性を意味する「may」と用法が違う。さらに、キリスト教的世界観においては、道徳的義務とアリストテレス的本質の関係は議論がありえるところで、どの立場をとろうといちおう概念としては区別することになるから、道徳的義務を意味する「ought to...」とも異なることになる。