ダーヴィズムの擁護

ものすごくためらいがあるが、道徳的根拠の一つとして、「自分(や親族や子孫)の生存可能性を高めることは、(いちおう)善いことである」というダーヴィズムを認めても良いような気がする(これはダーヴィンがそういうことを言っていたということではない。その意味で「ダーヴィズム」という言葉は誤用だが、便宜のために使う)。


第一に、僕たちの論理性や合理性が、生存に有利だから進化の過程で保存・強化されたものならば、道徳的議論において生存に不利な判断をすることは、この論理性や合理性の誤用だといえるのではないか。


第二に、「カルネアデスの板」に代表される緊急避難の正当化を上手く行うために、「自分の生存可能性を伸ばす」に類することを道徳的根拠と認めざるを得ないように思う。

反政府ゲリラに捕らえられた二人のジャーナリストにゲリラのリーダーが告げた。

「政府が身代金の支払いを拒んでいるので、お前たちのうち一人を殺すことにする。ついては、俺は早起きな人間が嫌いだ。だから、お前たちのうち、今朝より早く起きたほうを殺すことにする。お前のたちはそれぞれ、自分が今朝何時に起きたかを紙に書け」。

さて、二人のジャーナリストのうちAは、自分は殺されたくないからという理由で、本当は6時に起きたのに「11時」と紙に書き、Bは8時に起きていて、正直に「8時」と書いた。

そして、Bが殺された。

このケースでは、Aに非難されるべきところがあるかもしれないが、彼の行動はいくらか正当化されるだろう。

では、次のケースはどうか?

Aは正直に「6時」、Bも正直に「8時」と書いたとする。しかし、その紙をリーダーのところに持っていく下っ端C(彼もまた人質の一人であったとしてもよい)が、自分はBが嫌いだという理由で、Aの紙を「11時」と書き直した。

そして、Bが殺された。

僕には、前者のケースでAを正当化する何かが、後者のケースでのCには足りないように思われる。少なくとも、このような考えは、道徳的議論においてアプリオリに拒絶されるべきではないのではないだろうか。


第三に、ダーヴィズムのさらなる乱用から、ダーヴィズムを救う必要がある。

ゼロサム・ゲームではないのに、弱者を負かすこと、痛めつけること、虐げることが「進化の法則」に従ったことだとか言い出すような誤用だ。僕が提案しているのは、各々は自分のスコアを伸ばすこととは正当化されるということであって、ゼロサム・ゲームを前提していないので、他人のスコアを落とすことが必ずしも正当化されるわけではない。

しかし、このような誤用をうまく批判するためには、それを内在的に批判するのがもっとも有効だ。「でも、これはゼロサム・ゲームではないよ」と。そうすると、あらかじめダーヴィズムをそのようにいえる形で道徳的根拠に組み込んでおくと都合が良い。