政策的問題の合理的・公共的議論の可能性

政策的問題の判断・解決には,多くの場合にある程度の価値判断が入らざるをえないし*1,そこでいう「価値判断」はたいてい道徳的価値判断の側面を持っている。

だから,僕は最近,政策的問題について合理的に議論・判断する可能性を擁護するためには,道徳的価値判断について合理的に議論・判断する可能性を擁護しなくてはいけないと思っている。

しかし,それはそれで間違っていないとは思うけど,現実問題としては,道徳的価値判断についてではなく,政策的問題に関係する経験的事実についてさえ,合理的に公共的議論が行われているか疑わしい

例えば…

  • 長期的トレンドにおいて地球温暖化は発生しているのか
  • 発生しているとして,人類の活動の結果なのか
  • ゴミの分別に意味があるのか
  • 割り箸のために追加的に樹を切り倒しているのか
  • 切り倒しているとしてそれは二酸化炭素の吸収という面からみてマイナスなのか
  • 国内の外国人の犯罪率は高いのか
  • 性犯罪者の再犯率は高いのか

といった経験的事実について,合理的な議論が行われ,それに基づいて投票や政治運動が行われているか,かなり疑わしいと僕は思っている。

そういうわけで,現実問題としては,道徳的価値判断について合理的に議論・判断する可能性を云々するはるか以前のところで,僕たちはつまづいているのかもしれない*2

ということをベッドのなかでぼんやり考えていたら,macskaさんがちょっと関係するような記事を書いていたので,ぼんやり考えていたことを記事にしてトラックバックを打ってみる。

*1:少なくとも政策を実現するコストとメリットを比較しないといけないけど,このコストとメリットが両方とも純粋に経済的価値だけだということは少ない。またもし,純粋に経済的価値だけで判断してよいような政策ならば,そもそも公共部門が担当すべき事業なのか疑問が出ることもあるだろう。

*2:ここまで書いて気づいたけど,この文章はパトナムのいう「事実/価値の二分法」を前提にしているな。うーん。