石原都知事の「天罰」発言がなぜ許せないのか

都知事がすで撤回した発言なので、それをいまさら云々するのはいかがなものかという気もするが、その撤回は肯定的に評価するという前提で、もともとの「天罰」発言がなぜ許せないのか書いておきたい。

石原慎太郎東京都知事は14日、東日本大震災に関して、「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べた。都内で報道陣に、大震災への国民の対応について感想を問われて答えた。

発言の中で石原知事は「アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等。日本はそんなものはない。我欲だよ。物欲、金銭欲」と指摘した上で、「我欲に縛られて政治もポピュリズムでやっている。それを(津波で)一気に押し流す必要がある。積年たまった日本人の心のあかを」と話した。一方で「被災者の方々はかわいそうですよ」とも述べた。

石原知事は最近、日本人の「我欲」が横行しているとの批判を繰り返している。

http://www.asahi.com/national/update/0314/TKY201103140356.html

まず、石原都知事が天罰といった種類の因果関係、つまり道徳的な堕落とかそれに類する人間の逸脱に対して、超自然的な応報が下される、そしてその応報は道徳的に公正で理に適ったものであるといった因果関係が存在することを本気で信じているかどうかよく分からない。もしかしたら、彼はそういった因果関係が存在すると本気で信じているわけではなく、「まるでそういった因果関係が存在するかのように受け止めるべきだ」と言いたかったのかもしれない。

東京都の石原慎太郎知事は25日、福島市福島県災害対策本部を訪れて佐藤雄平知事と面会し、放射性物質に汚染されていない福島県産農産物の流通などで都が支援すると申し入れた。会談後、東日本大震災に関連して「やっぱり天罰だと思う」と14日に発言し、その後撤回した問題について記者団から問われ、「日本人が堕落し、我欲が横行して政治も引きずられている状況に対する大きな戒めという意味で言った」と釈明。さらに「福島県民は天罰を受けるような罪があったか」と聞かれ、「ありません。日本全体の責任だと思います」と答えるやりとりもあった。

http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/03/26/kiji/K20110326000503790.html

また、ここで述べられている「ありません。日本全体の責任だと思います」というのは、石原都知事の本心だろうと思う。彼は、東北大地震の直接の被災者が、その不利益に「相応しい」罪を個々人として犯したのだとは考えていないのだろう。

しかし、どちらの点も、もともとの「天罰」発言が残酷で独りよがりなものであることを否定する理由にはならない。


ところで、(いわゆる)旧約聖書ダビデとバト・シェバの物語をご存知だろうか? 旧約聖書の物語の中で、ダビデは英雄王である。そして、バト・シェバが産んだダビデの子ソロモンは次の王となり、彼も偉大な王として称えられる。しかし、ダビデとバト・シェバの「馴れ初め」は非常に問題があるものだ。

当時、ダビデの王国は他国と戦争中だった。ヨアブという指揮官の下にウリヤという戦闘員がいて、彼らは前線で戦っていた。他方、王宮にいたダビデは、その屋上からある女が水浴びをしているのを目にとめ、その後、その女がウリヤの妻バト・シェバであることを知ったが、王宮に召しだし、彼女と性交した。

バト・シェバが妊娠したので、ダビデはウリヤを王都に呼び戻し、バト・シェバがいる彼の家庭でくつろがせ、妊娠した子がウリヤの子ではないことを隠蔽しようとした。しかし、聖戦の途中であり、戦友たちがいまだ戦場にいることを慮ったウリヤは、自分だけが家庭に帰ることを良しとせず、バト・シェバと関係を持つこともなかった。

隠蔽工作が失敗したダビデは次のような行動にでる:

翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた。

新共同訳・サムエル記11.14-15

こうして、自分の死刑執行書を携えて戦場に戻ったウリヤは、味方に戦場に取り残され、孤立して死んだ。その後、ダビデはバト・シェバを妻に迎えた。


当然というべきか、旧約聖書の物語の中で、神はこのダビデの罪に対してまさに天罰を下している:

主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていた。ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。〔…〕

七日目にその子は死んだ。

新共同訳・サムエル記12.15-18

この後、バト・シェバはさらにダビデの子を産み、その子がソロモンだ。


さて、この物語が意味していることは何だろう? まず間違いなく、ソロモンは罪を犯したので公正にも神が天罰を与えた、ということだろう。たしかに、ソロモンは罪を犯して、その罰を受けた。ソロモンの行動が道徳的な罪であることにほぼ異論はなかろうし、ソロモンが罰を受けることにもほとんどの人は納得するだろう*1

しかし、この読解には欠けているところがある。この点について、バード・D・アーマン『破綻した神 キリスト』から引用しよう:

確かにダビデは苦悩の日々を過ごし、その結果は彼にとって良いものではなかった。つまり彼は苦しんだ。だが死んだわけではない。死んだのは子供である。そしてこの子供は悪いことなど何一つしてはいない。

バード・D・アーマン『破綻した神 キリスト』168頁

ソロモンが天罰を受けるのは公正なことだろうが、子どもがそのとばっちりを受けるのは、どう考えても理に適ったことではない。しかし、この神の天罰が公正なものだというのであれば、この何の罪もない子どもが死んだことも、また公正で理に適ったことだと理解しなければならない。それが「天罰」という概念の意味だから。

やや繰り返しになるが、この旧約聖書のエピソードが伝えたいことは、子どもの死という罰がソロモンに対して公正だということであって、その子ども自身に対して公正だということではなかろう。しかし、このエピソードが伝えたいことが何であれ、子どもの死が天罰だというのであれば、その子どもの死が公正で理に適ったことであるということを受け入れざるを得ない。


僕が石原都知事の「天罰」発言が許せないのは、この点だ。

都知事は、もしかしたら、天罰という超自然的な因果関係を本気では信じていないかもしれない。また、被災者自身に相応の罪があったと考えているのではなかろう。しかし、その二点についてどう考えているのであれ、東日本大震災が天罰である、あるいはそう受け止めるべきだというのであれば、結局のところ、その被災は公正で理に適ったことであるということ自体は肯定せざるをえないはずだ。そこを否定したら、「天罰」という概念を持ち出す意味がさっぱり分からなくなる

別の言い方をしよう: 都知事は、東北を中心とした被災者に対する個人的応報として天罰だといったわけではない。そうではなくて、日本国民全体への集団的応報として天罰だといったわけだ。しかし、それは結局、東日本大震災の被災者が苦しむことは公正で理に適ったことであると述べていることに、何も違いはない。


念のために繰り返すが、都知事はすでにこの発言を撤回しており、それは肯定的に評価できる。

*1:僕は天罰という因果関係を信じないので、あくまでフィクションの筋書きとして、だが。