デイヴィドソン

『真理と述定』では、デイヴィドソンの「真理論」という議論・論争についての考え方が披瀝されている。デイヴィドソンは真理を定義したい、あるいは定義的な分析を提供したいとは考えていない。

デイヴィドソンにとっては、真理は、すでに明確な概念なのだ。だから、定義する必要はない。デイヴィドソンは、すでに僕たちが明確に理解している真理の概念の帰結に関心がある。

たぶん、普通の「整合説」「対応説」「合意説」は、真理値を持つ信念・文・発話のクラスの線引き問題に関心を持っている。いわく、道徳的言明は真理値を持つ何らかの事実の記述ではなく、感情の表出なのである、といった。

しかし、デイヴィドソンにとっては、評価的な文であれ、その文を僕たちが平叙文として発話している以上、それは真理値を持つ。


『真理と述定』自体は、おもに真理論についてのかなり丁寧な論述で、あまり広いテーマへの展開をみせていない。それでもやはり、少なくとも僕にとっては、デイヴィドソン哲学の全体像の解説といえるものだった。

例えば、非法則一元論について。

デイヴィドソンは、心的事実なるものが存在する、ということをまったく疑問視していない。心の哲学の他の物理主義的な各説は、何かしら「心というものが本当にあるのだろうか?」という懐疑から出発しているようなところがあるけれども、デイヴィドソンの議論にはそういうところはない。

これはデイヴィドソンの真理論から帰結する態度だと思う。デイヴィドソンは心的事実の存在をまったく疑っていないが、その理由は「たしかにあると感じられる」といった類のものではなくて、たんに、我々は心的事実(信念や感情)についての平叙文を述べている、したがって心的事実は存在しなくてはならない、というものだろう。

デイヴィドソンが心的事実の存在を認めるのは、それを僕たちが認知しているからというものではないため、それをどのように認知しているか、例えばサールがこだわるような心の「存在論的主観性」のようなものにはこだわらない。

だから、非法則一元論は、なんというか… 唐突な始まり方をして、唐突な終わり方をする。「心的事実は存在する。存在するものは物理的事実のみのである。矛盾はない。以上」。