「善」という用語

倫理学とは、おおざっぱに言って、「善」に関する学問だ。

倫理学では、「善」「善い」というタームをよく使うけど、だまされてはいけない。これは英語の"good"に相当する言葉なのだ。だから、うまい料理も、すばらしい音楽も good = 善 だし、そろえて集めた文房具も、アニメのフィギュアも goods = 善 だし、経済学で考える財も goods = 善 だ。

世の中には、いろいろな 善い = good なものや状況や人がいる。速いCPUは good だし、ゲームの難しい面をクリアしたら good な気分になるし、もちろん美男・美女は good な存在だ。こういういろいろな 善い = good があるけど、ただ、倫理学はそれらの中でおもに「道徳的善」を扱う。

いろいろな善のなかでとくに道徳的善にあたるものは、例えば、困っている人を助けるとか、約束を守るとかそういうものだ。逆に、悪の問題の代表としては、約束を破ること、人を殺すこと、ものを盗むことなどが挙げられる*1

いろいろな善のなかで道徳的善を選び出す基準は、じつはかなり曖昧だ。というか、その基準を探すのが、倫理学の目的だ。しかし、大抵の人は、直感的にある程度はっきり分かる。速いCPUはたしかに good だけどこれは道徳とは関係ないし、困っている人を助けることはまず間違いなく道徳と関係がある。もっとも、特別に深い考察に基づいて、速いCPUは道徳的に善だといっても構わないが、それは普通は冗談や修辞でしかない。

いま、僕は「善」をかなり広い意味で使ったけど、あくまで「道徳的善」に限定して、それを「善」と呼ぶこともある。その場合、速いCPUや、美男・美女のよさを言い表す用語としては、「善」ではなく、「卓越性」や「価値」といった用語を使う*2

*1:悪は善の欠如態なのか(キリスト教の伝統ではこう考えないと矛盾が起きるので、これは西洋哲学史で人気のある考え方)、むしろ善が悪の欠如態なのかという問題は、おいておく。

*2:詳しく知らないし、間違っているかもしれないが、「卓越性」は古代ギリシア哲学に由来し、とくにアリストテレス倫理学で重要な言葉だから、アリストテレスとのつながりを感じさせる。