直接実在論

直接実在論の議論は、つぎのように理解できるかもしれない。

僕が十円玉をある角度から見ると、それは「茶色い円」に見える。また別の角度から見ると「茶色い細長い長方形」に見える。触ると「冷たい」。また、噛むと「硬い」。

センスデータ説は、こう主張する。「茶色い円」「茶色い細長い長方形」「冷たい」「硬い」というセンスデータが僕達が経験しているものであり、またそれのみを経験している。それらのセンスデータを統合して導き出される「この十円玉」そのものを僕達は経験しているわけではない。「この十円玉」は、僕達の心理的能力(悟性・理性・知性etc..)が作り出した観念に過ぎない。

直接実在論は、こう反論する。「茶色い円」「茶色い細長い長方形」「冷たい」「硬い」というセンスデータを僕達は経験する。それに加えて、「ある角度から見ると…」「また別の角度から見ると…」というセンスデータが得られた条件、「触ると…」「噛むと…」というセンスデータを引き出した僕達の側のアクション、「茶色い円」「茶色い細長い長方形」「冷たい」「硬い」というセンスデータ相互の関係とそれらの作っている構造をも僕達は経験している。そして、そのセンスデータ相互の関係とそれらの作っている構造に「この十円玉」が組み込まれているのであるから、僕達は「この十円玉」も経験しているのだ。


しかし、直接実在論の主張がこのようなものに過ぎないのなら、それは看板に偽りありと言えはしないだろうか? それは、結局、追加された又は拡張されたセンスデータ説に過ぎないのではないか?