「ドリームクラブ ゼロ」事件

「ドリームクラブ ゼロ」発売延期の真相か、シナリオ制作費未払いの件についてTeam N.G.Xにインタビュー

一方当事者(受注者)の主張を僕が理解したところでは、次のようになる:

  1. 2009年9月に「ドリームクラブ ゼロ」というゲームのシナリオを作成する仕事を受ける。この時点では、新規作成量は2.5MBという話であった。
  2. たぶん、この時点で見積りを出し、契約。契約書には「見積りの容量を超えた際には別途料金で追加発注となる」とのような記載があった。
  3. その後、事情が変わり、作業量が増えることが判明した。
  4. たぶん、受注者側は事情が変わり作業量が増えることは理解しながら、当初の予定作業量を超えて作業を続けた。
  5. 受注者は、最終的に4.5MB新規作成する必要があることが判明したので、その時点で発注者に連絡すると、量が増えるのであれば追加発注になり、追加発注をしていないのだから、当初金額しか払えないと応じられた。
  6. 紛争となって、シナリオ作成は3.5MB強で停止した。
  7. 当初契約による報酬の半額は受け取っている。
  • 受注者としては、残りの報酬を支払ってほしい。
  • 発注者は、3.5MB強を未完成な最終納品物として受け取り、その未完成度に応じた残金を払うといっている(当初契約による報酬の残額よりも少ない)。
  • 受注者は、著作権はまだ受注者側にあるはずだ、と主張している。
  • 発注者は、そのシナリオに手を加え、さらに自らへの発注者(パブリッシャー)に納品し、パブリッシャーはそれを販売しようとしている(していた)。


著作権がどちらに帰属しているのか、という問題について。

第一に、民法上の請負契約類似の契約書を交わしているんだろうと思うから、発注者の法人著作にはならないだろう。原始的には、受注者に著作権が帰属する。

第二に、請負契約だと、判例は請負の目的物の所有権は原始的には受注者に帰属すると考えており、たぶんこれは、基本的には完成後に所有権移転の意思表示が必要ということだろう。とすると、この請負契約類似の契約においても、別途著作権譲渡の意思表示がないかぎり、受注者に著作権が帰属したまま、ということになると思う。

第三に、ただし、発注者は作業の進捗に応じて順次成果物を受け取っている。受注者側の主張だけを読んだ感じだと、これは作業のチェックであって、順次「納品している」、つまり著作権を譲渡しているとは評価できなさそうだと思うけど。


報酬の請求について。

シナリオが未完成なのはたしからしいので履行遅滞であり、基本的には、発注者は契約の解除をすることもできるし、あくまで完成品の納品を求めることもできる(発注者側に履行遅滞の責任があるということになれば、少しややこしくなるけど)。

しかし、発注者は契約の解除をするつもりもないし、完成品の納品も望んでいないようなんだよね。発注者は、未完成なシナリオを納品物として受け取り、それに対して自らが適正だと考える報酬を支払おうとしている。

でも、さっき書いたように著作権は受注者にあり、発注者が選択できるのは、(1)解除か、(2)完成品かであって、(3)未完成品の著作権の譲渡請求権は契約からは出てこないと思う。


受注者側としても、契約の解除は望んでいないだろうし、どちらかといえば未完成品を納品して、それに見合った報酬を望んでいるっぽい。もっとも、作業量としては当初契約以上に行った受注者としては不満だろうけど、契約がある以上、当初契約の報酬以上に請求するのは難しいだろう。

成果物の完成/未完成ではなく、労働量に比例した報酬が欲しいのならば、請負類似の契約ではなく、派遣か何かに近い契約をするべきだった。もっとも、そうしたら今度は著作権が受注者側に原始的に帰属するという前提が崩れるけども。


結局、双方とも、「未完成品を納品して、それに応じた報酬を支払う」という解決を望んでいて、しかし、未完成品の引渡し請求権も未完成品の代金支払い請求権も、契約からも法律からも出てこないと思うので、和解するしかないんじゃないだろうか。

パーサー・コンビネータ

ABAの日誌さんで、C#でパーサーコンビネータという記事を見つけた。しかし、僕のUbuntu + Monoな環境では*1Extension Methodsができないようで(?)と勘違いしていたので、Extension Methodsを使わない形で、書いてみた。

[追記]MonoでExtension Methods使えました。っていうか、「System.Coreアセンブリへの参照を加えよ」という親切なエラーメッセージが出ているのに、読まずに「あ、だめだ」と思ってしまっていたみたい。ごめん。[/追記]

*1:べつにマイクロソフトが嫌いとかそういうわけではない。たんに経済的事情。

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迷路解析・改良

改良してみた。

Pointという正格データ型を作り、Array、Set、Sequenceというデータ型を駆使してみた。けど、時間を測ってみると、それほど替わりはない(どちらにせよ0.005秒とかだけど)。

また、Data.Unambライブラリを使ってみたかったので、簡単な並列化、'S'から'G'へと'G'から'S'への二経路を探索するようにしてみた。

2Coreでうまくスレッドが機能すれば、より早いほうで結論をだせるけど、いわば逆向きのほとんど同じ計算を2スレッドでやっているだけなので、1Coreだとか、スレッドがうまく機能しないだとかだと、本来的には効率が落ちているかも。

でも、僕の手元では、うまく機能しているっぽい。

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臓器移植問題

基本的な説明

倫理学で盛んに取り上げられる思考実験の一つに、次のようなものがある。

まず、二つの事例:

  • A. もうすぐ死にそうな1人と同様の5人のどちらかを治療することが選べる*1。5人を治療すれば、治療されなかった1人は死ぬが、5人は死の危険を回避することができる*2。5人を治療するべきか?
  • B. さしあたって死の危険がない1人から強制的に臓器移植を行い、もうすぐ死にそうな5人を治療することができる。強制的臓器移植を行えば、臓器を摘出された1人は死ぬが、5人は死の危険を回避することができる。5人を治療するべきか?

次に、三つの問い:

  • a. AにYesと答えるか? Noと答えるか?
  • b. BにYesと答えるか? Noと答えるか?
  • c. aへの回答とbへの回答は矛盾しないか?

この答えは、理論的には8通りある:

  • 1. (a)Yes - (b)Yes - (c)矛盾しない
  • 2. (a)Yes - (b)Yes - (c)矛盾する
  • 3. (a)Yes - (b)No - (c)矛盾しない
  • 4. (a)Yes - (b)No - (c)矛盾する
  • 5. (a)No - (b)Yes - (c)矛盾しない
  • 6. (a)No - (b)Yes - (c)矛盾する
  • 7. (a)No - (b)No - (c)矛盾しない
  • 8. (a)No - (b)No - (c)矛盾する

これらの回答について、検討しよう。


回答しない、という態度もありえる。とくに、(b)については、それを選択しようとすること自体傲慢過ぎるとか、どちらかが「道徳的に正しい」と考えることは不遜だとか、YesもNoも道徳的な正しさは同じだとか、あるいはそもそも「道徳的に正しい」答えなどありはしないとか、考える人も少なくないだろう。

でも、それを言っては話が進まないので、ここではひとまず置いておく。

さて、(1)についてNoとする5〜8の回答は、ありえないとまでは言えないが、ひとまず考える必要がないだろう。回答しない/選択しないという態度を除いた上で、(1)についてYesかNoを選ばなくてはならないなら、Yesのほうが道徳的にマシだというほうに大方の意見が一致するだろうから。

また、規範倫理学が目指すのは基本的には一貫した矛盾しない立場なので「矛盾する」になる(2)と(4)もひとまず考えの埒外に置くことにする。そうすると、残る選択肢は、結局二つ:

  • 1. (a)Yes - (b)Yes - (c)矛盾しない
  • 3. (a)Yes - (b)No - (c)矛盾しない

功利主義あれこれ

単純な功利主義の立場をとれば、(1)を選択することになる。それに対して、(3)を擁護したければ、功利主義を何らかの形で修正するなり、あるいは功利主義を根本的に放棄するなりして、そのうえでその自分の道徳的立場を一貫した説明へと展開しなくてはならない*3


功利主義の修正として、まず規則功利主義がある。つまり、Bの事例の場合、臓器移植を許せば今回はたしかに効用が向上するが、これを許すようなルールを維持していては長期的には効用が低下するだろう、というように考える*4

もう一つの修正として、「効用」「功利」「快」あるいは「福利」「幸福」を単純に生死や健康性に結びつけない立場をとることもできるだろう。いわく、そのようにして臓器を移植された人たちは、決して幸福ではなかろう…

この二つめの修正は、表面上は、事実分析的な修正と、定義的な修正に分けられるだろうと思われる。つまり、そのような人たちの「快」あるいは「幸福」は低いものである、事実としてそうなのである、と主張するのが前者。後者は、そのようにして得た「快」は… なにか「本当の幸福」のようなものではない、定義的にそうなのである、功利主義の定義をそのように変更する、と主張する。

しかし、この事実分析的な修正と定義的な修正を明瞭に区別することはできないだろう。先の規則功利主義もまた、建前上は事実分析的な修正だが、実際にそれを一貫できるかは極めて疑わしい。


このあたりをどう考えるべきなのかは、よく分からない。たぶん、「効用」「快」「幸福」といったものそれ自体が、ある種の合理的再解釈に開かれていないと考えることは、非常に奇妙なアイデアに僕たちを導く、ということは言えるだろう。

例えば、人間が快を感じているときは、脳細胞がある種の興奮をしている、あるいはある種のホルモンに浸されているといったようなことが完全に判明したとしよう(この種のことですでに多くのことが判明している)。では、人間のヒトES細胞を大量に生産し、それを脳細胞に分化させ、何京人分に相当する脳細胞を作り出して、それぞれ一つ一つ、あるいは数十個の小片に分けて培養液で維持するとしよう。そこで、先ほどの興奮を起こすなり、ホルモンに浸すなりする。

こうすれば、人類全体の「効用」「快」「幸福」が劇的に増加するのだろうか? あくまでYesと答えられるのか? うーん… これが人類の飛躍的な向上だと考えるのは、とてつもなく奇妙であるように思える。

あるいは、こう考えるべきだろうか? それはたしかに「効用」「快」「幸福」であるのだが、遺伝的な意味でのヒトの細胞は必ずしも人間を構成する細胞ではなく、したがってその「効用」「快」「幸福」は人間のものではないので、功利主義からみてカウントの対象外だ、と。

たしかにそう考えてみることもできるが、質的に同じ「効用」「快」「幸福」であるのなら、どうして人のものと区別、もっと言えば差別するのか、という問題がでてくる。

*1:1人と5人の組み合わせを変えることはできない。また、どちらも治療しないという選択肢はないものとする。

*2:つまり、通常の健康な人が通常に生活を送る程度には。

*3:本当に「道徳的立場を一貫した説明へと展開しなくてはならない」のか? べつにそんなことをしなくても僕達はひとまず生きていけるし、そんなことを生真面目に追求している人のほうが少数派だ。たしかに、それを必死で追求していくことは、僕たちのほとんどにとって手に余る課題である。とはいえ、ある程度はそのような追求を行わなくてはならない、と僕は考えている。(1)こういった一貫性、合理性の要求をまったく拒絶することは、そもそも道徳的判断、道徳的選択というもの不可能にするだろう。(2)実際のところ、完全な道徳的ニヒリストとして人生を送れる人はまずいないと思われる。つまり、このような探求を完全に拒否することもまた僕たちの手に余る。(3)そのような探求をある程度行う能力は僕たちに備わっている。そうでなければ、僕たちが現に行っているような道徳的な対話、自己正当化、道徳的非難などが一切行えなくなるだろう。

*4:この事例Bについては、これは説得力がある。ルールの功利性を考えるならば、少なくとも強制的臓器移植よりも臓器売買のほうがマシだろう。

『一冊で知る虐殺』

1冊で知る 虐殺 (「1冊で知る」シリーズ)

1冊で知る 虐殺 (「1冊で知る」シリーズ)

ジェノサイトのいろいろな問題を解説しよう、という本。たぶん「現在進行中の虐殺に私たちはどう取り組むべきか?」という問題意識からダルフールの扱いがもっとも大きいけど、地域的には世界中の、歴史的には古代のカルタゴ壊滅から現代までの虐殺が視野に入っている。

その膨大な内容をいわゆる新書サイズに詰め込んだために、またそもそもジェノサイドが複雑な問題であるために、全体的に漠然? 抽象的? になっていることは否めない:

  • なぜジェノサイドは起こるのか? - 先住民のいる土地に入植者を送り込むとき、ある民族集団などを排除して国の支配を確立しようとするとき、ある政府の彼らなりのユートピアを建設しようとするときなど、いろいろ。
  • どこでジェノサイドは起こるのか? - 地球上の「どんな場所でも起こる」(48項)
  • いつジェノサイドは起こるのか? - 戦争中に起こることが多いが、それ以外でも起こる。
  • 誰が加害者になるのか? - 「誰でも、どんな人でも加害者になれる」(70項)

しかし、それでもなお、虐殺の予兆は察知可能であり、予防や開始されてからの制圧も可能である、というのがスプリンガーの重要な主張。

ただ、この著者が僕よりも国際政治に疎いということはまずないだろうと思うのだが、奇妙にナイーブであるように感じられる。全体的な印象としてもそうだが、とくに次の部分:

2004年12月末のスマトラ島沖地震による津波被害に対する世界中からの心温まる支援は、次のような問題を提起した。なぜ同じような支援がジェノサイドではできないのだろうか? ジェノサイドも災害だ。なぜ人はジェノサイドのよう人災よりも、津波といった天災の被害者を助けるのだろうか? 両者には違いがある、と考えるからだろうか?

津波の被害者は何の罪もないのに命を落した。それでは、ジェノサイドの被害者はどうだろう? たいていの人は認めないだろうが(否定するだろうが)、ジェノサイドの被害者の身の上に起こったことは本人にも責任がある、と多少なりとも考えているにちがいない。

津波の被害者を純粋な被害者と認めるときには、「ほかの人間の手にかかって大量虐殺された人」というショッキングな事実に直面する必要がない。さらに同胞である人間(つまり自分自身)の暗黒面と向き合う必要もない。

津波の被害者を助ける場合、不快な、あるいは「言語に絶する」真実に出くわす必要がない。ところがジェノサイドの被害者を助ける−ジェノサイドが起こる前に防止を呼びかけるのが最善だが−場合は、そういうわけにはいかない。


(143-144項)

ここでスプリンガーが列挙している要因は存在するだろうし、それでもなお僕たちは虐殺を予防し、それを制圧し、被害者を助けなくてはならない。それはたしかにそうなのだけど、津波被害者の救援よりもジェノサイド被害者の救援に及び腰になるのは、そういった要因だけではないだろう。

なんといっても、進行中のジェノサイドを実効的に制圧するためには、少なくともサブマシンガンなどを持った組織だった武装集団と敵対しなくてはならない。津波の被害現場も治安はかなり悪化したはずであり、その救援も安全なものではないが、それとジェノサイド実行組織と対立する危険度は大いに違うだろう。

また、ジェノサイドの場合は、国際的に承認された現地の「政府」が直接的に、あるいは間接的・実質的にジェノサイドを支援しており、外国から救援を拒絶するから、内政干渉という抗議をうみ、救援をやれば受け入れを拒否している国での軍事展開にならざるをえない。実際のところ、軍事侵攻、戦争といえるだけの活動をする覚悟がないと、実効的に制圧できるか分からない。

さらに、津波被害救援の場合は、ともかくも急場をしのぎさえすればいちおう現地の努力によって生活再建が進むだろうという期待をすることができるが、ジェノサイドの場合は殺していた集団と殺されていた集団が協力して生活を再建していくのを見守っていくのに、とてつもない時間とコストがかかる。

繰り返すけど、それでもなお、ジェノサイド・虐殺を制圧し、被害者を救援すべきだというのは正しい。また、先進国が覚悟を決めて取り組めば、それは可能だ。でも、上述部分で列挙された要因だけで違いを説明しようとするのは無理がある。